東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(81)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 2012 ロンドンオリンピック、パラリンピックは、日本選手の活躍もあって、大盛況のうちに閉幕しました。選手団の帰国後、銀座通りでは、バスを連ねてメダリストのパレードが行われ、平日にも拘らず、50万人の人垣で埋まり、2020、東京招致に向って一層の弾みがついたことでしょう。

 しかし、男子サッカー3位決定戦で勝利した韓国選手の心ない行動が発端となって、中国でも尖閣諸島国有化に抗議する群集がデモとなって各地に飛び火し、未だ騒動は続いております。

 今ほど我々日本人が全員矜持を持たなければならないときはないと思います。

 建築家の安藤忠雄氏は、日経新聞連載、私の履歴書のなかで、「昭和43年頃起きた三島由起夫事件は、戦後高度成長を達成して奢り高ぶり、戦うことをやめた日本人に三島氏が鳴らした警鐘である。」と看破しています。

 今回は過去に遡って日本と近隣諸国との紛争について歴史探訪します。

 ロケット打ち上げで有名な糸川英夫博士は「日本列島に渡って来た日本人の祖先はもともと好奇心旺盛であった。ところが、気候温暖で快適な環境に甘んじて何千年も暮らしているうちに、単一民族となって安住してしまった。」と述べておられます。

 又、こんな説を唱える学者もおります。「日本人は大陸に暮らしていましたが、大きな声を出してがなり立てる人達に辟易して、朝鮮半島経由で日本列島に渡り定着したのが我々日本人の祖先である。」

 歴史に残っている最初の海外紛争は朝鮮半島の南にあった「任那」(みまな)を巡って起こりました。「みまなの三毛猫ゴロニャーン(562)」小学生のときの記憶が蘇って参りました。その次は、大化の改新を中臣鎌足と645年に起した中大兄皇子がのちに天智天皇となった御代に起きた白村江戦(はくすきのえのたたかい)です。日本国は3万人の兵士を送り込んで破れました。

 NHK大河ドラマの主人公、平清盛は大陸を攻めようという思想を持っておりました。清盛は神戸に港を開き、宋と貿易をしたり、厳島神社を建て、大陸からやって来る商人達に日本の隆盛を誇示することに意を注いだようです。清盛の野望は、源平の合戦で敗れて潰えましたが、500年後織田信長によって引き継がれます。種子島に鉄砲が伝わり、前後して渡来した宣教師がキリスト教を伝道します。信長は宣教師を手厚く保護して布教を許し、見返りに西欧の情報を採取します。1492年、コロンブスが米大陸を発見、マゼランが世界一周する等、西欧は大航海時代に突入し、大きなうねりが起き、地球全体に及んで行きました。信長は地球が丸いということを理解した最初の日本人であったと云われています。鉄砲を大量に製造し、天下をほぼ手中に収めようとした矢先に、明智光秀が本能寺の変を起し、天下は秀吉、家康に引き継がれます。秀吉は天下を統一してから信長の遺志でもあった大陸侵攻を試み、朝鮮に出兵しましたが、寿命と命運が尽き、撤兵します。

 慶長5年(1600)、家康は関ヶ原の戦で勝利してようやく平和が訪れます。徳川幕府は、朝鮮征伐の罪滅ぼしとして、定期的に朝鮮から日本へ客人として招待しました。朝鮮通信使と云われましたが、慶長12年(1607)から文化8年(1811)延べ12回に渡って招待しました。数年前、私が加入している東海道ネットワークの会の例会があり、テーマが「東海道 矢橋の渡し 朝鮮人街道を探訪」でありました。その時頂いた、彦根東高校の門脇正人先生が生徒達と足で調査し著した『「朝鮮人街道」をゆく』と題した著作を繙いて見ました。一行の人数は300〜500人で、正使、副使、従事官の引率の下に漢陽を出発し、釜山から海路を対馬、壱岐、藍島を経て関門海峡から瀬戸内海の港に寄港、大阪に上陸、京都、近江八幡、彦根、大垣、名古屋から東海道を下った旅程略図が載っておりました。この旅程から判断しますと、往復6ヶ月以上を要したと思われます。「清書」と書かれた幟を先頭に、笛、太鼓、喇叭等を奏でながら賑やかに練り歩きました。この大行列を迎えるための道路掃除や、架橋の修理、又宿泊の費用は沿道の各藩が負担し百万石以上要しました。又準備、後始末などに前後一年はかかったようです。江戸城入りのとき、市中は沸き返りました。江戸滞在は20日から1ヶ月に及び、彼らが披露した曲馬の芸「馬上才」は大評判でありました。

 幕末に米国から黒船が来航し、日本は大混乱となりますが程なく徳川幕府は倒れ、明治維新を達成します。日本国は富国強兵政策で欧米列強諸国に追い付く為に躍起になる余り近隣諸国との対応を蔑ろにした感があります。

 日清戦争、日露戦争に勝利する過程で、朝鮮、台湾を植民地とし、有頂天になった頃から転落の徴候があったことでしょう。日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦まで約40年かかっていますが、清盛が保元・平治の乱に勝って天下をとり、頼朝が鎌倉幕府を開くまでとほとんど同じ年月で体制が逆転しています。敗戦によって、明治以降に奪った領土を失い、朝鮮半島は北と南に分断し、南は韓国となって、李承晩大統領は日本海に線を引き、日本の漁船が入ると拿捕して連行しました。しかし、この李承晩ラインは国際的に認められませんでした。1950年朝鮮戦争が勃発します。日本中に配備された米軍基地からGIと戦闘機が飛び立って行きました。日本は戦争に荷担することは出来ず、しかし軍需物資を米国に売り、国は潤います。中国の故事で「漁夫の利」という諺がありましたが、当時の日本はこれを地で行ったような状態で、特需と云って景気は沸きますが、私は戦争という他国の不幸によって自国が潤った咎を今受けているような気がしてなりません。因果応報という言葉がありますが、『十八史略』に「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)という故事もあります。植民地となって公用語は日本語を使うことまで強要された人達にとってみれば、若し解放されたら意趣返しをしようと、辛い時代を耐え忍んでいたに違いない。第二次大戦後70年近く経ちましたが、米ソ冷戦状態が終り、ベルリンの壁は崩壊し世界は大きく変わり出しました。BRICSの台頭、ユーロ通貨統合とスペイン、ギリシャの経済破綻、中国はGDPで日本を追い越しNo2へ躍進、民主化は遅れ貧富の差が拡大するとは云え、人口12億の1%が富裕層がいれば絶対数は1千万人以上となり他国の比ではありません。発展途上国の人々が欧米並みの生活水準になる為には地球があと1.6個要ると云われますが、決して武力に頼らずに、過去の歴史に学び、主張すべきことは主張し、与えられた条件で世界中が共存する為に日本が果たす役割は大きいのではないか。

 ローマ史研究家塩野七生氏は「自国を守る気概を持たない国はたとえ同盟国でも守ってはくれない」と仰っています。

朝鮮通信使旅程略図(朴春日『朝鮮通信使史話』より)
朝鮮通信使旅程略図(朴春日『朝鮮通信使史話』より)

朝鮮国書捧呈行列図巻(辛基秀氏蔵)
朝鮮国書捧呈行列図巻(辛基秀氏蔵)



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