東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の[・達磨船

花 筏


皆様、誠に恐縮ですが上に掲げました絵画をご覧頂けますでしょうか、何の変哲も無い木場内のありきたりの風景ですので、これならオレにでも画ける、と思われた方が多いと思いますが、描かれたのは今は故人となられましたが、江東区の美術連盟のプロの方です。一寸見には素人でも画けそうに思いますが、玄人でも意外に難しいと云う絵だそうです。
又、この風景を一瞬でお判りになられた方も年季の入ったプロの木屋の先輩だと存じます。

 一応、判る範囲の説明を致しますと、年代は昭和35年(1960)頃の富岡2丁目の北詰めでダルマ船が浮んでいるのが油堀川でラワン丸太が縦に係留してあるのが平久川であります。油堀川=通称・油堀=成田山深川別院・富岡八幡の裏(現在の高速9号線)を流れていた。
角に木造の倉庫が三棟と二間の林場が二棟と水色の二階家が一棟ありまして、この二階が従業員の宿舎で8畳と10畳で下が店舗と食堂と風呂とトイレ、と云う間取りでありました。
 右の奥に赤く見えるのが深川八幡で手前の赤い社が冬木町の青木家のお稲荷さんです。さて問題は油掘に浮かんでいる船(通称・達磨)ですが、この達磨は今朝ここに着いたばかりなのですが、当時は東北地方から来る材木の多くが南千住の隅田川駅に着いて、其処から船やトラックに積み替えて木場に到着を致しました。船の方がトラックの三倍積みました。
強力な馬力のポンポン蒸気がこの様な船を10艘ぐらい繋いで大川(隅田川)を下り木場の入口の佐賀町の、上の川(仙台堀川)、中の川、下の川(油堀)、迄運んで来てお役ご免となる。そこからは各船の船頭が竹竿一本で荷受人(問屋)の河岸先まで届けた訳です。
従って、当時の木場内の地価は川に接している角地が一番高く、今とは間逆でござんした。
又、このダルマ船の舳にある三角の覆いの下が八畳程あり此処が住まいで、ここに船頭夫婦と犬が一匹居て、このワンセツトで365日を過す訳です。但し船頭はこの絵の様に荷物が万杯で到着しますと、この約300石(100u)の荷物の「鼻を切る」(番頭が担ぎ易い様に、荷物の先端を持ち上げて担ぎ手の肩に乗せる)のは力の要る大変な重労働でした。


昭和30年〜40年代頃 木場3丁目 全国から集められた丸太が浮かんでいた

 こちらも、昭和三〇年代の油堀の写真で先の図のダルマ船が、そのまま先に進むとこの場所に参ります。河岸の問屋は誠和さん(葉柄材屋)や氏橋さん(高級・原木屋)だと思います。水面の丸太は尾州檜や米檜の逸品だと思いますが、河岸に沿って巨大な米檜?の大径木が見えます。持主の方にお聴きしますがこれ一本で立派な家が建ったと思いますが如何也?。
 尚、この写真を見ておりますと、川の中央に浮遊物があり、これが○左衛門さんに見えギョッと致しました。幸い見間違えの様ですが、昔はチヨク〃〃拝見を致しました。その時如何するかと申しますと、先ずは交番に届けまして、次に護岸に鳶口を持って上がり、仏様の流れ方を注視して、川の中央より手前に来る様でしたら鳶口で向こう側に押します。この場合、対岸に上がっている者も同じ行動を取りますので、白塗のポンコツの自転車を押しながら来る、お巡りの到着が勝負です。別に怒られる訳では有りませんが、かなりの時間の事情聴取をされますし、仏様によってはそのご面相と強烈な匂いで二〜三日メシが喉を通ら無い事がありますので、余り丈夫で無い方は関わらない方が宜しいかと存じます。但し、筏の上で遊んでいた子供が川に落ちると、筏の下に吸い付いてしまい息が出来ずにOUTになる事が有りますので、くれぐれもご注意を願います。これは大人も同様でご猿。この場合、皆様がご承知の様に♂は下向きで♀は上向きで流れて参りますが、渡辺淳一の『失楽園』の様な一心同体と云うのは残念乍ら一度も拝見はいたして居りません。

 

 

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