東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の]〈信長外伝〉

花 筏


実録、〜「深川と織田信長」・「坪井信道」考〜

 以前、「功名が辻」と云うNHKの大河ドラマが放映されたが、日本を中世から解き放った希代の傑物である、従三位参議・織田弾正忠信長が本能寺で自刃し、その御首印が未だに行方知れずとなっておりますが、その信長のまごうこと無き直系の子孫が皆様の足元である、この深川に住んで居たと云う事などは案外知られていない様ですので今回はこの辺を少々…。


 「光忠、これえ〜」、これが信長が出陣する際に発する決まり文句なのですが、この場合の光忠とは信長の愛刀の刀工名で、備前国長船住の光忠と云う刀鍛冶の事でご猿。

太刀 銘 長光 (名物 津田遠江)

 信長の所持刀は数多あり、全てが天下の名刀ばかりなれど、中でも特にこの光忠を好み生涯で25腰を集めたと伝えられている。…本能寺で最後の供をしたのも光忠であろう…
 備前(岡山)は古来より刀剣王国として知られ、現存する古刀の数ではダントツである。その中でも長船は名門鍛冶の集団としてその名は高く、光忠はその長船鍛冶の頭領であり、“注進物”(鎌倉幕府が正和2年(1313)に全国に良く出来た刀を注進させた刀工の名簿)に記載のされている名刀、切れ味に優れ華麗で優美なスタイルは如何にも信長好みである。
 当時の多くの武将にも好まれ、信長の他にも、豊臣秀吉の常指し、福島正則、池田輝政、小西行長、小早川隆景(高麗鶴光忠)、等の愛刀で有名でもある。但し寡作で数が少ない。

 信長、信忠の親子が明智光秀に討たれたのが天正11年(1583)、その光秀が山崎の合戦で豊臣秀吉に討たれ、織田家の跡目相続は清州会議で信忠の嫡男の三法師丸に決定をした。
 この秀吉の肩に乗って登場した三法師丸は天正8年(1580)生まれで、この時は三歳。 織田本家の居城である安土城で天正11年に元服して、秀吉の偏偉も受け織田秀信と名乗る。其の後、小田原後北条氏が潰れ大掛りな転封で文禄元年(1592)に13万石で岐阜城主となる。時に秀信13才、因みにこの年に秀吉の養子の羽柴小吉秀勝と浅井長政xお市の方の三女の小督(淀君の妹)との間に生れた娘と結婚をしている。この辺りから織田家は段々と豊臣の一族の扱いを受ける様になって行く。これは信長の次男の信雄が暗愚であった為でご猿。
 以後は秀吉の庇護により、階位も従四位下侍従から左近衛少将となり、更に参議を経て慶長元年(1596)には16才で従三位・権中納言となっている。
 この様な訳で関ヶ原の戦いでは東西両軍に誘われたが、必然的に西軍に属する事となり、結果、慶長5年(1600)8月23日、福島正則、池田輝政、浅野幸長、黒田長政、山内一豊、細川忠興、藤堂高虎、加藤嘉明の豊臣恩顧の各将に囲まれ関ヶ原で正式な開戦となる直前に総攻撃を受け、搦手・二ノ丸・大手口と破られ落城寸前、ここで老臣の木造具政と池田輝政が仲介に入り、秀信の降伏と城兵の助命を条件に開城となった。
 始め秀信は切腹を覚悟したが、輝政の執り成しにより主従十余人は高野山に送られ無事。併し秀信は今迄の心労から慶長10年(1605)この地で病を得て、25才を一期として「グッドバイ。」
 かくして家は滅んだが、子孫は岐阜の揖斐川の周辺に潜み、姓を「坪井」と変え市井に隠棲し辛うじて生き延びて、信長のDNAは後代に継承されたと云う。

 それが開花したのが230年後の天保3年(1833)で、信長より数えて7代目の直系となる「坪井信道」である。信道は、寛政7年1月2日、美濃国(岐阜県)池田郡脛永村に生れた。
四男一女の末子であり、名は道、幼名は環、長じて一助、のち道庵、号は誠軒、と称した。幼少より利発であったが家は貧しく、その上に父母は信道が10才と12才の時に亡くなり、以後は僧侶になっていた長兄の浄界に頼る事になる。浄界は信道の大志が再び家を起こす事に有ると聴き、尾張の秦鎗浪(しんそうろう)で漢学を学ばせ基礎を築かせたが、更に一段と学を深める為に当時著名であった豊前中津藩の倉成善司の門に入れた。そこで藩医である辛島成庵や宇田川榛斎に出会い、その影響を受け蘭学を学び、ついに蘭方医となった。時に信道21才。
 その後、広島で蘭方医の中井厚沢や岡研介(岩国藩医、シーボルトの鳴滝塾の初代学長)と出会い、周防(山口)の赤間関で開業して一年半で1500人の患者を診療したとの事である。そこで多少の蓄えが出来たので、更に江戸にて勉学に励む志で周防を出たが、途中で兄の浄界が病に罹ったと聴き京都に立ち寄り看病の後、全てを与え従手空拳で江戸に出て来た。

 文政3年(1830)、26才の時に信道は宇田川榛斎の門に入り、葛飾の燈明寺から江戸の鍛冶橋迄6キロの道を毎日通い後に神田の借家に移る。終日塾で勉強し、帰路に按摩をして灯油代を稼ぎ残りで食料を買った。こうした生活がたたって、或る日、塾の門前まで辿り着いたが、そこで卒倒してしまう。見かねた榛斎は彼を塾の玄関番に採用し、何とか食住は確保した。
 信道は志が高く努力家でもあったので直に頭角を現わし、師匠に代り新入塾生に蘭学の手ほどきをしたり、夜分は和蘭語辞典の「長崎ハルマ」を筆写して筆耕料を稼いだりした。2年後の文政6年(1823)、榛斎はライデン大学のベルハーベェの著書を渡し翻訳を命じた。信道はこれを3年掛けて訳し32才の時に「万病冶準」の題名で完成した、全21冊で718章からなる大書である。しかし、この本は出版されず筆写で伝えられたので幻の本となってしまった。
 この年、榛斎は家督を倅に譲り、当家の近くの深川2丁目辺に移り翻訳を続ける事になったので、信道も共に深川に引越し師の手助けをする様になった。これが信道と深川の初見である。

 文政9年(1826)3月、「診断大概」を刊行した。これは前述の「万病冶準」を要約したもので、この本により西洋流の診断が日本に確立された。この本には体温計の使用法まで細かく説明をされていた。
 文政12年(1829)、信道35才の時に師の榛斎から五両(約50万)を借り、深川三好町の借家で診療を始め、直後に「安懐堂」と云う名の蘭学の塾をオープンした。この年こそが深川で蘭学が花開いた記念すべき年である。直に入門者相次ぎ隣家を買収し塾を拡張する。信道は蘭学の指導に文法を導入した。これは蘭学教育の革命で子弟の蘭学の上達に多大な成果を挙げた。
 医学教育はライデン大学そっくりの臨床講義が行なわれた。毎月、三と五の日に病床で患者を前にして、性別年齢を確認し、現在の主訴を聞き、自ら病状を診断して所見を語り、病名を決定し、その原因を教え治療の方法を定め、患者自身の摂生法と講義を進めたので、「安懐堂」の名は全国に広まった。
 信道は自ら貧困の苦しさを体験しているので、塾の謝礼は入門時に大豆一升を受け取り、授業料は年に大豆二升だけであった。経費は極力切詰め寄宿生は各自交代で自炊をさせた。天保2年(1833)37才の時に水戸藩医で蘭学者の青地林宗の長女久米(22)と結婚したが、当時でもかなり晩婚である。
 この年、信道の亡き後に日本医学界の元締となった、「適塾」の緒方洪庵が入門しており、後には逆に信道の養子の信良が福沢諭吉らと共に洪庵の門下生になっている。
「安懐塾」は益々繁盛して門人が溢れたので、塾から500メートル程の深川冬木町に塾舎を新設して日習堂と命名した。かくして信道は「安懐堂」・「日習堂」と云う二つの塾を擁し江戸第一の蘭学の殿堂となった。天保3年(1833)信道38才、今から約200年程前の事である。場所は仙台堀川に面し、木更木橋と亀久橋の間の江東区冬木14〜15番地、現在の江東区立深川第二中学校の辺りである。

 思うに、「冬木町」は深川に出現して330年程が経つが、町全体が輝いた時が二度ある。 始めはご存知、紀伊国屋文左衛門より以前の豪商で冬木(上田)弥平次「冬木屋」三代目の弥平次が戸田土佐守から1万2500坪の荒地を買収して、これは現在価格にして4億8千万位、(元禄期は一両が30万位の計算)1600両で買収して町屋とした時。この時(宝永2年・1705)名前も「永代裏」から「冬木町」となった。この「冬木町」と云う町名は現在迄一度も変わらず継承されており、この様な例は非常に稀である。大概は世の中の移り変わりと共に、吸収・合併されている。冬木家の広大な庭園の中に「冬木弁天」の御堂も祭られ、尾形光琳、乾山、の兄弟を始め日本を代表する一級の文化人が数多く参集しサロンとして賑わっていた正徳・享保(1711〜1735)の時代である。

 二度目がこの坪井信道の「安懐堂・日習塾」の全盛の時であろう。この塾の門下生には緒方洪庵がおり、後に洪庵は大阪で有名な「適塾」を開き、福沢諭吉等を育てる事となる。
洪庵は22才の時、信道の塾に入り信道の若い頃と同様、清貧の為、塾の玄関番をしている。又、諭吉も中央区の鉄砲州の中津藩下屋敷で蘭学塾を開き、これが慶應義塾の前身となる。洪庵も信道と同じく働き盛りの54才で急死をしている。不思議な符合であるが、福沢諭吉は信道の法要に出席して焼香をしている。洪庵が信道を師と仰いでいた為であろう。
 「幕末のジェンナー」と呼ばれ種痘で数万人(7〜10万人)を助けたと云われる桑田立斎。福井藩の藩医で藩政改革がオーバーヒートして、安政の大獄に連座し獄死した橋本佐内。又、佐久間象山、川本幸民、青木周助、等とも大変に親しく、幕末の日本の蘭学を一手に引き受けていた感がある。この両塾からトータルで2000人もの塾生が巣立っているが、もう少し信道が長命であったら、今頃は他の蘭学塾と同様に一流の医科大学になっていた事を思うと信道の晩婚と短命が惜しまれる。
 信道は嘉永元年(1848)11月8日、胃癌が肺に転移して54才を一期として亡くなった。
その後、塾は養子の信良が引継いだが、7年後の安政2年(1855)の江戸・大地震で崩壊し、その上に翌年の大津波にて壊滅的状態となり、安政3年(1856)に名実共に終わりを告げた。

 尚、信道の長兄の浄界は摂州小浜村米谷(宝塚市)の清澄寺の第30代の住職となっている。次男の兄の実覚は深川永代の万徳院の住職となるも3年前の天保14年(1843)に病死をしている。万徳院(真言宗)は冬木弁天堂と縁が深く、実質的な堂守りであり仏事の指導寺である。又、信友は信道の長男である。幼名は安貞、後に信友から二代信道となった。嘉永5年に緒方洪庵の適塾に入門、江戸で開業して長州藩の侍医となり、「好生堂」の教授にもなった。同時に長州藩の軍備拡充のために、桂小五郎らと「蘭書会読会」を始め、軍事関係の翻訳及び研究をした。元冶元年7月に禁門の変が起こり、結果、長州征伐の沙汰となり信友も江戸で糾問所に幽閉された。後に山口に送られ好生堂医学館長兼病院総督と厚遇されたが、元来が病弱であったので慶応3年5月25日に肺結核の為、36歳の若さで亡くなる。
 信良は信道の塾生から見込まれて養子になり、後に長女の牧と結婚して坪井塾を継いだ。福井藩主松平春嶽の侍医兼藩校の教授、幕府の蕃書調所教授より西洋医学所の教授を経て、幕府の奥医師、のち医家の最高位の法眼。大政奉還の時には徳川慶喜の供で二条城に居た。維新後は徳川家と共に静岡に移り静岡病院副院長、明治7年に東京府病院長に就いている。
 同じく信道の養子になった門人に、坪井為春がいるが為春は本来は大木忠益と云った。
天保11年(1840)に入門、嘉永元年に養子縁組し坪井姓となる。翌年(1849)塾頭となった。嘉永5年(1852)に芝浜松町にて開業して、信道の次女の幾(16)と結婚。後に医学所の教授、埼玉県医学校の校長を務めた。
 又、信道の適孫の時代以降になると各界で著名な人物の名前が躍り出して来る。例えば東京大学在学中に本郷キャンパスで弥生式土器を発見した、考古学・人類学の泰斗である坪井正五郎は孫、その子が地質学の坪井誠太郎、その長男が化学の坪井正道であり、他に物理学の坪井忠二が居り、彼等は全て東大教授であり、織田信長の末裔なのでご猿。

紙本著色織田信長像(狩野元秀画、長興寺蔵)
 
 
 

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