東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.155

〜歴史探訪 一人旅〜
京都「阿弥陀寺」と「信長公」「本能寺の変」について
青木行雄

 

※「阿弥陀寺」表門。織田信長公本廟の石柱が建つ山門、表の道路は狭く観光バスは入れない為、観光客は少ない。
※「阿弥陀寺」正面本堂、なかなか立派な本堂で中には、「信長公」の歴物がつまっている。
※この中央の中に織田信長公の木像が入っている。
※この木像が織田信長公の座像である。毎年6月2日信長忌に堂内拝観と併せて寺宝公開される。
※織田信長・信忠の墓、奥の右が信長、左が信忠の墓石である。この奥に開山清玉上人の墓もある。
※森蘭丸ら三兄弟の墓である。大変広い墓地で、6月2日は信長忌でかなりの人出らしい。
 

縁あって京都の「阿弥陀寺」に「信長公」を尋ねた。阿弥陀寺は、寺町通今出川を北へ500mほどの東側にあった。門前に「織田信長公本廟」の石柱が建っていたのですぐわかった。ひっそりとした寺で観光客はほとんどいないが、3,000坪もあると言う寺で境内はけっこう広い寺であった。本堂は入口の正面にデーンと建っており、立派な本堂である。丁度紅葉の時期だったので境内の木々が色づいていた。
 阿弥陀寺と名のつく寺は30寺ぐらいあると言うがこの上京区のこの寺は浄土宗鎮西派、蓮台山惣見院の阿弥陀寺と言う。住所は京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14である。
 この「阿弥陀寺」について、ちょっと詳しく記して見たい。
 天文年間(1532〜1555年)室町時代の後半にあたる。清玉上人が近江(滋賀県)の坂本で開創したのが始まりで、本尊は丈六の阿弥陀如来である。
 この上人は、織田信長の帰依を得ていて、信長の入洛に際し西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川通大宮)に移り、永禄年間(1558〜1569年)に落成したと言う。前寺地は、八町四方あり塔頭11寺院をもつ大寺院であったと言う。また当時、正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、勅願所とされていた。このことについては前住御内室の話によると清玉上人は当時大変偉い方で、奈良の東大寺が宗教戦争によりあの大仏殿が焼け落ちた時、今で言う再建の最高責任者を当時の天皇から、任命されていたと言うのである。東大寺の歴史書にも清玉上人の名前が書いてあると言う。
 本堂には、織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には織田信長、信忠や森欄丸ら三兄弟の墓、本能寺の変討死衆の墓がある。墓地はかなり広かった。毎年6月2日(信長忌)この日が本能寺の変があった日である。その2日に堂内拝観と併せて寺宝を公開していると言う。以前は信長公の木像等は常時見られたようだが近年は6月2日のみ御開帳と言うことであった。
 何故、阿弥陀寺に織田信長をはじめ本能寺で討ち死にした家臣の墓があるのか不思議に思われる人も多いと思うが、この寺の開創者の清玉上人が幼少の頃織田家で育てられていたのである。信長の父(信秀)が尾張を行軍していたとき、路上で苦しんでいる一人の妊婦と出会い、信秀は医師に命じて薬を与えるなどの介護をした。しかし、効果なく妊婦は間もなく亡くなるが、子供は助かり織田家で育てられる。この子供が「清玉上人」で、13歳で南都興福寺に入り修行、後に近江坂本で「阿弥陀寺」を開創したと言うことであった。
 もう少々、阿弥陀寺に信長の墓が何故あるのか。本能寺の変で信長の遺骸はどうなったのか。その後、天下をものにした秀吉の仕打ちなどについて記してみる。
 1582年(天正10年)6月2日、この日が信長の命日であるが、“本能寺で信長襲われる”という知らせを受けた「清玉上人」は、塔頭寺院の僧侶達を連れて駆けつけたが、既に本能寺が焼け落ち信長は自害していた。信長は家来達が「俺の身体は敵に渡すな」との遺言に従って遺骸を焼いており、上人は織田家との関係を家来に話し、信長の遺灰を貰い受け阿弥陀寺へ戻り葬った。更に翌日、二条城で討ち死にした信長の長男・信忠や家臣の遺骸百十余名を収容し、一人ひとりに法名を授与し埋葬した。
 「豊臣秀吉」は“山崎の戦”で明智光秀を討った後、清玉上人にその手柄を褒め、改めて自身が喪主となり、一周忌法要を行うことを命じたが、清玉上人はこれを断った。
 そこで秀吉は法事料として300石の朱印や永代墓所供養のための寺領を与えると強要したが、やはり上人は辞退したと言う。怒った秀吉は大徳寺内に「総見院」を建て、一周忌法要を済ませると共に阿弥陀寺での法事をあらゆる面で禁じ、折檻や嫌がらせもされたようである。
 清玉上人がなぜ秀吉の申し出を固辞したかは、想像するしかないようだが、やはり秀吉が若い頃から受けた信長公からの大恩を忘れ、天下をわがものにしようとすることへの怒りだったのではないか、と阿弥陀寺の前住御内室は話してくれた。
 そんなことから、秀吉は1590年(天正18年)から始められた都市改造と言う名目で阿弥陀寺は蓮台野から現在の場所に移転され、しかも寺地は従来の八分の一に縮小されたと言う。従って今約3,000坪と言うから、24,000坪もあった広大な寺院であったことになる。
 1917年(天正6年)信長を正一位に追贈する等の宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認されて勅使の来訪があったと言う。
 境内墓地には、他に開山清玉上人、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓などもある。
 毎年6月2日には大法要が行なわれ、信長公の遺品や、寺宝も公開されると言う。
 こんなことから信長公に大変興味を持ち、『信長の棺』と言う歴史小説を読むことになった。
 「本能寺の変」では一般的に信長公の身体が不明となっており、明らかにされていない所が多い。時の権力者が自分の都合の良いように作家を雇い書かせて来た事実もあるようだ。
 「本能寺の変」についてはこの前記では、自害した信長を家来達が焼いて遺灰にしたとなっているが、歴史小説の『信長の棺』では又違った見方で書かれている。
 この『信長の棺』の小説を読んでいろいろ事実らしい所もわかって来た。
 まず、「歴史小説」と「時代小説」について先に考えてみたい。一般的には、ほぼ同じ意味に用いられているが、文学の上ではかなり明確な区別があるのである。
 歴史小説は、主要な登場人物が歴史上実在した人物で、主要な部分はほぼ史実の通りに進められる。著者がその主人公の生き方や思想に感動したことによって物語が生まれ、主人公の行動あるいは発言に、著者が訴えたいモチーフが込められており、歴史を題材とした評論的な趣が強い。例を言えば、山岡荘八の『徳川家康』や丹羽文雄の『親鸞』などは典型的な歴史小説といえる。
 一方で、時代小説は、『銭形平次』のように架空の人物を登場させたり、『水戸黄門』のように実在の人物ではあるが、助さん、格さんの子分を連れて、諸国漫遊するのは史実とかなりかけ離れている。このようにエンターテイメント性を重視したのが時代小説と区別されているのである。
 そこで私の読んだこの『信長の棺』は歴実に基づいたと思われる歴史小説として完読した。
 信長の最期、「本能寺の変」は誰でも大変興味がある所でもある。
 この歴史小説の一部を紹介すると、
 信長の家臣太田牛一は本能寺の変の直後、信長生前の命令に従うべく西へ向かうも佐久間に捕らわれてしまう。その後秀吉に、信長の伝記を執筆することを条件に牛一は助け出される。助け出された牛一は、山の民の娘、楓とともに信長の遺体の行方を捜し始める。信長の遺体の行方を追って行くと丹波で山の民の頭で楓の祖父である惣兵衛と出会い、阿弥陀寺の僧清如に会う道筋をつけてくれた。その後清如と会った牛一は、本能寺から南蛮寺への抜け穴の存在や秀吉は元山の民出身であったということ、抜け穴を秀吉が埋めたことが原因で信長が死んだということなど知らされる。小説はこのような展開になっていくのだが。
 もとを正せば、この小説の一部は「阿弥陀寺」に残る歴史や伝記、言い伝えなどを参考に著者の加藤廣がこの寺に残る歴実などに基づいて書きあげた歴史小説なのである。
 そして日経新聞に連載され、歴史小説『信長の棺』は26万部の売上げを記録するベストセラーとなり、また小泉純一郎元内閣総理大臣の愛読書としても話題になったと言う。
 これを原作としてテレビドラマ化され、テレビ朝日系で放送され高視聴率であった。
 秋紅葉の盛りに「阿弥陀寺」を尋ね、前住御内室からいろいろ聞いた話とこの『信長の棺』の本を読んで、大変親近感を感じ、阿弥陀寺と信長公を身近に思った。京都の観光案内には掲載されていないが、穴場的観光名所である。


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