東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.156

〜歴史探訪 一人旅〜
芝「増上寺」と「除夜の鐘」
青木行雄

 

※増上寺大門、浜松町駅前からおよそ400m、参道に建てられたこの門は、昭和に入って再建された比較的新しい建物。
※大門を抜けるとその正面にある。国の重要文化財に指定されている「三解脱門」(三門)今はここから先が増上寺の境内と言う。上部には大きな「謹賀新年」の字が目立った。(午後11時40分)
※大殿(本堂)の正面の上にデーンとこの額があった。浄土宗芝「増上寺」らしいすばらしい黄金色の大きな額である。
※三解脱門の入口にこの立看板があった。1年で今日だけの立看板である。鐘撞きに「ようこそ」と言っているような気がした。
※正面から見た「大殿(本堂)」である。横に東京タワーが黄金色に輝いており、歴史を物語っている。ツーショットの風景は絶景だ。
※「除夜の鐘」直前のセレモニー。5〜6人の僧と中央が第88代住職。12月31日深夜12時前の読経である。読経は実に神秘的であった。
※高さ約3メートル、重さ約15トンの大梵鐘は1673年の鋳造、340年前の鐘である。東日本で最大級の大きさ、迫力がある。
※入場券が1回1組につき4枚ある。白、黄、青、ピンクの4色あった。108回中22番。早い方だった。
※白い紐が見えるが、4人はこの紐をもって撞いた。この日のボーンと言う音には何か秘められた神秘的なものがある。日付1月1日。
※記念品に頂いた品物である。こんなお札は見たことはなかった。おいしい大福とありがたいお札のセットである。
 

 「平成24年12月31日午後11時半大本山増上寺鐘楼前にお集まり下さい」と、大本山増上寺から招待状が届いた。12月20日の事である。この招待状の券には「煩悩を百八つと撞く除夜の鐘」─無量子、と書かれてあった。私の知人に長野の善光寺関係の住職がいてその方からの案内であった。方々にある有名な鐘もついた事はあったが、除夜の鐘は始めてなので、早速連絡を取りお礼の書状をしたためた。なにしろ芝の増上寺と言えば「徳川家」の菩提寺であり、そしてここの「大梵鐘」は東日本一の大きさを誇り、重さ約15tもある強鐘である。その鐘をつける事はまたとないチャンス。大変光栄に思った。
 この鐘の打ち方は4人で1回打つと言う。3人の友人にお願いし付き合ってもらったが、気分は大変上々であった。その時の様子は後に記すとして芝「増上寺」の歴史等を先に記して見た。

 

増上寺の歴史と伝統について
 増上寺は、1393年(明徳4年)620年前、浄土宗第八祖西誉聖聰上人によって開かれてたと言う。
 場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられているらしい。
 室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展してきた。
 安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれた(1590年、天正18年)423年前。家康公がときの住職、源誉存応上人に深く帰依したため、と伝えられている。
 1598年(慶長3年)415年前には現在の芝の地に移転し、江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行った。
 三解脱門、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などが相次ぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣の勅許もあったと言う。
 家康公は1616年(元和2年)397年前増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で没している。
 この芝の増上寺は、6人の将軍が眠る徳川将軍家墓所でもある。
 二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の将軍である。
 墓所には各公の正室と側室の墓も設けられているが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれていると言う。
 現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されている。
 

 江戸時代には、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達して来た。全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林の筆頭、主座を務めるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めていた。
 檀林とは僧侶養成のための修行及び学問所で、当時の増上寺には常時3,000人もの修行僧がいたといわれている。
 寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれたと言う。
 それが明治期になって増上寺にとっては苦難の時代となっていった。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神宮の養成機関が置かれる事態も生じた。また1873年(明治6年)と1909年(明治42年)の2度に渡って大火に遭い、大殿他貴重な堂宇が消失したのである。
 しかし1875年(明治8年)には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな檀徒を迎え入れ、増上寺復興の兆しも見えはじめたと言う。
 大正期には焼失した大殿の再建も成り、その他の堂宇の整備、復興も着々と進展していた。
 明治・大正期に行われた増上寺復興の営為を一瞬の内に無に帰したのが1945年(昭和20年)の空襲であった。
 しかし終戦後、1952年(昭和27年)には仮本堂を設置、また1971年(昭和46年)から4年の歳月を35億円の巨費を費やして、壮麗な新大殿を建立している。
 そして1989年(平成元年)4月には開山西誉上人550年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建、更に法然上人八百年御忌を記念して2009年(平成21年)圓光大師堂と学寮、その後安国殿も建立され、現在焼失を免れた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿他数十棟の堂宇が、1万6千坪の境内に立ち並んでいる。
 増上寺には阿弥陀如来像の黒本尊が祭られているが勝運を招く黒本尊として伝えられている。
 恵心僧都源信の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願したと言う。その歿後、増上寺に奉納され、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として江戸以来広く庶民の尊崇を集めていると言う。
 広い境内には昔の面影が残り、浄土宗大本山としての威厳みたいなものを感じた。そして第88代住職の身体からは、オーラを感じるのである。
 それでは「除夜の鐘」の様子を記してみたい。
 午後11時10分頃増上寺の「三解脱門(三門)」の前に到着した。この真夜中にかなりの人出にびっくりする程だった。
 この三門の正面の高い所に「謹賀新年」の文字が掲げられ、参拝客を迎える準備は整っていた。そして入口に12月31日「除夜の鐘」の立看板が目立った。この三門をくぐり中に入ると、一昨年は、カウントダウンのイベントが行なわれ、除夜の鐘と共に新年の初詣が始まる。そのカウントダウンと初詣に集まる人出で何十万人にもなると言う。昨年参拝者があふれオーバーして事故があったようで、今年このイベントは中止ですと何十人かの僧がハンドマイクで言い回っていた。
 本堂(大殿)の裏には東京タワー全塔が黄金色で輝いていた。本堂と東京タワーはツーショットでカメラに収まるとすごい光景であった。
 その東京タワーの黄金の光が午後11時40分頃一瞬に消えタワーは真暗になった。
 午後11時45分、「除夜の鐘」のセレモニーが始まった。第88代住職を筆頭に5〜6人の僧が読経を始め、鐘楼の廻りには鐘を打つ人達が集まった。
 深夜12時に、僧による鐘が1回ボーンと増上寺境内及び芝界隈に響き渡り新年を迎えた。例年には感じた事のない新しい感動が胸をうち、東京タワーも同時に新しい銀色の光が輝き、「2013年」の文字が浮き上がった。
 一般の鐘打が開始する前に、第88代住職による新年のありがたい挨拶が始まった。どんな話が最初にあるのかと畏って待った。最初の話に、「昨年12月、政権が交代し自民党の安倍内閣になった」と切り出した。ちょっと意外な気もしたが、この仏教界も政治に大きく左右された過去を思えばとも思った挨拶である。そして一昨年の大地震の復興と国民の幸せを祈る挨拶だが、さすがに80歳以上になろうかと思われる第88代住職のお言葉は重みがあってありがたさがにじみ出ていた。
 ありがたい挨拶が終わり、いよいよ一般の鐘打である。私達の番は22番目。写真のような入場券を色別に4枚貰う。1チーム4人で、前2人後2人の組で色別に場所が決まっている。一番後ろに増上寺の僧が1人いて、4人の呼吸と動作を調整して合図してくれる。2回近くまで近づけて3回目に一気におもいきって打つ。
 1打が4人で108ヶだから、432人の人達が今回は打つことになる。どのくらいの時間がかかるかわからないが、鐘打は始まった。鐘楼に上がりいよいよ打つ時の気持、人それぞれと思う。私達が打ちならすこの鐘をどのくらいの人が聞いてくれるかわからないが、この新しい年が最良の年になり幸せになりますようにと祈る程心に余裕はなく、無我夢中に打った。あっと言う間だったが、その鐘の音は「ボーン」と実に大きく、前に打たれた人達のどの音よりも高音で、大変感動した。
 そして写真のように赤白の大福餅と「大本山増上寺・除夜の鐘」の木製のお札と御守を鐘つき記念として頂いた。
 鐘撞き後鐘楼を下りたら、初詣の人が本堂に並び、何万人かの人出にびっくりした。
 屋台の並ぶ商店街を通り正面から境内を出て、大門の街並み居酒屋へ行った。
 昨年の出来事やお会いしたすべての人達に感謝して、本年が良い一年であり、東北の復興やしっかりした政治の舵取りに願いを込めて乾杯する。深夜3時に帰宅した。

平成25年1月14日 記


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