東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.162

〜歴史探訪 一人旅〜
御殿場市「東山旧岸邸」と岸信介&建築家吉田五十八

青木行雄

 世界遺産となった「富士山」の裾野、御殿場の森の中に、伝統的な数奇屋建築と現代的な住まいとしての機能の両立を目指したと言う旧岸邸は広大な森林の中に建てられていた。

 東名御殿場ICから車で5分、広い場所に専用、無料のパーキング場が用意されていた。
 パーキングの入口に写真@の立看板があり、車を止めてから看板に沿って歩いていた。暫く行くと写真Aの方向が示されている。又少々歩くと写真Bのように屋根に草がはえている草葺きの山門があって入口がすばらしい雰囲気を思わせる。山門を抜けて散策路を通り周辺の竹林もすばらしいが少々歩くと、写真Cのあずまやが見えて来る。このあずまや、散策の途中のひと休みにご利用くださいとベランダ風の腰掛が用意されていた。続いて写真Dがあってちょっと進むと「東山旧岸邸」利用案内写真Eが立っている。岸邸に向かう途中には石仏写真Fの石像など見られる。
 そして正面に写真G岸邸が見えて来る。写真Hの左側が見学コースの入口で受付があった。邸内案内はボランティアがいて、1人でも丁寧に案内してくれた。
「東山旧岸邸は、首相を務めた岸信介の自邸として1969年(昭和44年)に建てられました。伝統的な数奇屋建築の美と、現代的な住まいとしての機能の両立を目指したこの邸宅は、建築家・吉田五十八の晩年の作品であり、氏の建築美学の到達点のひとつといえます。御殿場の美しい自然の中に歴史を刻みつづける空間で、ゆっくり見学下さい」とのメッセージが添えてあった。
 写真I、Jは庭から、大木に囲まれた邸宅の景色だが、敷地面積5,669.17uとあるから約1,700坪もあり、延床面積は567.66uと言うから170坪の邸宅で、木造構造、一部RC建築もあると言う。
 写真Iでもわかるが、庭園内には小川が流れ、「おたまじゃくし」が沢山生まれていて、幼い頃のふるさとを思い出した。ボランティアガイドの案内によると、ここでは多くの要人や海外からの賓客をもてなしたと言う。
 居間のイスから見るこの庭は又格別な風景であった。
 和室から眺めると写真Kの燈篭が目に飛びこんで来る。この燈篭は吉田茂元総理から受継いだものと言っていた。また、写真Lの燈篭は伊藤博文氏から人手に伝わってこの邸宅に来たと言う。古いが気品がある。



写真@

写真A

写真B

写真C

写真D

写真E

写真F

写真G

写真H

写真I

写真J

写真K

写真L

 それでは岸信介元総理の生い立ちを調べて記してみた。
 岸信介は1896年(明治29年)11月13日佐藤秀助、茂世の次男として、山口県吉敷郡山口町に生まれた。
 他に兄と弟、7人の姉妹がいた。佐藤家は熊毛郡布施村に広大な土地を持つ名家で教育熱心なことでも知られていた。しかし父が学究肌で商才に欠け、10人の子供たちの教育資金もかさんだことなどから、次第に暮らしは傾き始めていった。
 成績優秀だった信介は周囲から将来を嘱望され、旧制中学3年の時に養子縁組をして、岸性を継ぐことになった。岸家は近隣の名家で、佐藤家に養子入りした父秀助の生家でした。信介は山口中学を首席で卒業し、養父が亡くなった後は、養母らと共に東京に住まいを移している。
 1914年(大正3年)、第一高等学校に入学、一高時代の信介は読書三昧で、寄席や娘義太夫に熱中したりしたこともあったと言うが、成績は常に上位であったと言う。
 一高から東京帝国大学法学部独法科に進んでからは勉強に励み、首席にもなった。また在学中の1919年(大正8年)に抜群で高等文官試験に合格する。そして同年従妹の良子と結婚する。
 信介は卒業後も研究者として大学に残るようにと教授の要請を断り、自ら希望して農商務省に入省する。1925年(大正14年)に商工省に配属された信介は、1年かけて欧米を視察した。この出張は、信介をドイツ産業合理化運動に共感させ、経済大国米国との向き合い方を考えさせる貴重な経験となった。信介はその後、40歳で満州に渡り、以後4年間満州国の産業行政の責任者として活躍した。



 

 

 満州から帰国後の1941年(昭和16年)、岸信介は東条内閣成立と共に商工大臣に就任、2ヶ月後に太平洋戦争が勃発すると、国務大臣兼軍需次官に就任した。しかし戦争遂行をめぐる東条首相との対立から辞任、終戦後はA級戦犯容疑で巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に拘留されたが、不起訴となって釈放された。
 公職追放期間を経て1953年(昭和28年)、57歳で政界に復帰した岸は三木武吉らと自由党・日本民主党の合同に尽力し、1955年(昭和30年)自由民主党を成立させた。その後、石橋湛山内閣の外務大臣を経て1957年(昭和32年)、61歳の時に内閣総理大臣に就任している。
 岸信介内閣では国民年金法を成立させるなど、福祉政策を推進すると共に、経済成長の基礎を作った。また米国との立場の対等化をめざして、日米安全保障条約の改定交渉に尽力した。マスコミの反安保キャンペーン、そして激しいデモの中、強い信念のもと同条約の改定批准を断行したと言う。
 1960年(昭和35年)、新安保条約批准後に内閣総辞職をしている。
 岸信介は表舞台を退いた後も、国際親善に寄与するため、世界各国を歴訪、90歳で亡くなるまで、自民党の指導者として君臨した。

 御殿場での生活
 内閣総理大臣を退任して丁度10年後の1970年(昭和45年)1月、岸信介はかねてより別荘を建てるつもりで取得していたこの御殿場市東山の土地に自邸を建て転居した。
 御殿場には以前からゴルフをするためにしばしば訪れており、また東山には外戚の叔父にあたる元外務大臣松岡洋右の別荘があったことから、岸と御殿場は決して無縁ではなかったようだ。1968年(昭和43年)に東名高速道路が開通し東京へのアクセスが格段に向上したことも岸が御殿場へ転居するきっかけになったと思われる。
 御殿場邸では健康のため毎朝竹踏み300回をしてから自宅周辺を散歩し、それから自動車で東京の岸事務所へ出かける。それが岸元首相の日課であったと言う。
 また休日には大好きなゴルフをプレーしたり、盆栽の手入れにいそしむなど、御殿場の自然の中で悠々自適の生活を送ったと言う。
 首相退任後も大きな影響力を持っていた岸信介のもとには、多くの政財界の要人や海外からの賓客が訪れた。
 岸は1987年(昭和62年)8月に90歳で亡くなるまで、この自邸で暮らしたと聞いた。

 岸信介、政治家一族
 明治時代の初め、山口県に毛利藩の下級武士から出発して島根県令(現在の知事)の地位まで登りつめた佐藤信寛という人物がいた。この信寛以降、現在に至るまで、佐藤一族は多くの政治家を輩出して来た。
 なかでも特筆すべきは、岸信介と佐藤栄作が他に類を見ない兄弟宰相として歴史に名を残したことである。佐藤栄作は1964年(昭和39年)に第61代内閣総理大臣となり、7年8ヶ月という長期政権を築き沖縄返還等を実現した。
 また日本の政治家として初のノーベル平和賞を受賞したことで知られている。
 岸信介の娘婿である安倍晋太郎は中曽根康博内閣のときに外務大臣として入閣、連続4期務め日米関係の緊密化や日ソ関係の打開に尽力した。農林大臣、内閣官房長官、通産大臣を歴任し、中曽根首相が退陣する際には、竹下登、宮沢喜一と後継を争った。
 孫の安倍晋三は小泉純一郎内閣で官房副長官、自民党幹事長を務め、2006年(平成18年)9月には戦後最年少で第90代内閣総理大臣に就任した。そして2012年(平成24年)12月、安倍晋三は二度目の総理大臣に復帰し、アベノミクスで頑張っている。
 もう一人の孫である信夫は岸家の養子に入り参議院議員を務めている。
 このほか、戦前の近江文麿内閣で外務大臣を務めた松岡洋右は外戚にあたり、吉田茂元首相とその娘婿で元衆議院議員の麻生太賀吉、その孫の衆議院議員・第92代内閣総理大臣の麻生太郎とも姻戚関係である。
 それではこの邸宅、伝統的な数奇屋建築美を再現した建築家吉田五十八氏を簡単に紹介する。
 1894年(明治27年)東京生まれ、近代数奇屋建築の祖とされる建築家と言われた。
 父・太田信義(太田胃散創業者)58歳の時の子であることから、五十八と名付けられたと言う。東京美術学校(現・東京芸術大学)にて建築を学び、その後は欧米を遊学した。その際、日本の建築様式の近代化に力を注ぐことにめざめ、近代数奇屋建築を研究するようになった。作品には吉屋信子邸、鏑本清方邸、岩波茂雄別邸、大和文華館、日本芸術院会館、成田山新勝寺などがある。
 1964年(昭和39年)には文化勲章を受章。この岸邸が晩年の作品と言われ、完成してから4年後に吉田氏は1974年(昭和49年)に80歳で亡くなっている。
 御殿場で日本のシンボル世界遺産にもなった富士山の麓自然の森の中で、日本の最高職につき、晩年の17年間自分の間取りによる住まいで自由自適に余生を送られた。岸信介はこれ以上の幸せはなかったかに見える。居間から眺める庭園に赤く染まる紅葉の木がある。この木をこよなく気に入っていたと言う。そして豪華なソファにかけ、日本の100年後200年後の姿を思い浮かべたのであろうか。
 こんな一生を送られた岸信介は最高の幸せな人生だったかどうか本人しかわからない。

※岸総理が座って庭園を眺めていたと言う
「ソファ」

参考文献
 東山旧岸邸の資料

平成25年7月 記


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