東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.163

アフリカ大陸・西部の「ブルキナファソ共和国」
駐日ブルキナファソ大使館
フランソワ・ウビダ大使 公邸への招待状

青木行雄

日本人秘書からのメール文。

 「お世話になっております。
 大使が、青木様を一度公邸にご招待したいと申しております。
 8月4日19時からを予定しております。
 他にも数名がいらっしゃる予定です。
 お忙しい中恐縮ですが、どうか宜しくお願い致します。」

 公邸は田園調布1丁目、東急・東横線・多摩川駅より10分あまりの高台にあった。静かな住宅街の一角で、玄関脇に国旗を掲げ、2台の駐車スペースがある。大使公邸らしい住まいであった。
 1960年(昭和35年)8月5日はフランスより独立した日である。今夜は前夜祭日。大変光栄に思う。

※公邸の表玄関前、2台の駐車スペースがある。国旗が掲げてあった。田園調布1丁目、静かな環境にある公邸。

※公邸の応接間に現大統領、ブレーズ・コンパオレ氏の写真が掲げてあった。このマークは国章である。

 フランソワ・ウビダ大使には5〜6回程お会いし、面識はあるものの、公邸は初めてで、遠い国のアフリカの人であり、公用語はフランス語、意思の疎通はなかなか難しい。気が合ったのか招待を受けることになった。対面時は英語である。8人の招待客に大使夫婦を入れて10人のテーブル席、赤白のワイングラスに大き目の水のグラス、4枚重ねた大皿は本国の国旗のマークが印刷されていた。給仕役は自国の男が2〜3人で接待を受けた。今日の10人分の料理はご夫人が5〜6時間かけて作った手料理だと言う。油系が多く、鳥料理がメインのようだ。ブルキナファソの本国料理と思われるが、材料は何を使っているのか、口にしてもわかりにくい。でも食材は日本のもので大変おいしく戴いた。
 大使が一人一人を紹介し、乾杯はワインである。な〜るほど、フランス系なのだと納得。ビールは出なかった。
 最初玄関に入った時、玄関の踊り場にスリッパがない。躊躇していたら、そのままおあがりくださいと言う。日本式の玄関なので廊下もピカピカの木のフローリング、広い応接間も立派な絨毯である。その上を靴で上ったが(普段はスリッパのようだ)特別客として、気を使ったように思う。
 応接間では、お茶とつまみを出してくれた。数十分後、招待客が揃い、別室に案内された。
 本国の紹介や料理の話、招待客の皆さんとの経緯等和やかに談笑の後、9時を廻ったのでお開きになり、皆で応接間に移り、写真を撮った。国内では味わえない雰囲気の晩餐会であった。
 ブルキナファソ共和国、フランソワ・ウビダ大使との最初の出会いを記してみる。
 皆様は「サンマリノ共和国」は御存知だろうか、この国はイタリアの国の高原の一角にあって小さな国だが、世界で一番歴史の古い国と言われている。この国が2年前日本にいる世界の大使夫妻数百国が集合し、建国1710年目の祝賀会を開催した。このサンマリノ大使が日本にいる大使館の会長をしていると言う。この祝賀会の席でウビダ大使との出会いとなった。その後、ブルキナファソ自国のPR等にも招待されていた。その後、私の主催する会にも2〜3度招待し、私の友人も何回か会っている人もいる。そんな理由でこの度のご招待につながったと思う。
 アフリカ大陸について少しふれてみたい。現在国が53〜54国あると言う。何故はっきりしないかと言うと、1〜2国独立がはっきりしない国がまだあるらしい。アフリカを大別すると、地図で見て真中に縦に線を引きおよそ左側がフランス系で右側がイギリス系と言う。したがって、西部にあたるこのブルキナファソはフランス系で、日本で言うと昭和35年に独立したと言うからまだ53年しか経過していない新しい共和国なのである。
 今のフランソワ・ウビダ大使も日本で二代目の大使で日本に来たのも半年前と言い、日本語もまだ々々である。ご夫人はフランス語で大使に話し、大使が英語にして通訳に話し、通訳が日本語で話すので、理解するのに時間はかかるが、何回か会っていると不思議と理解が早くなった。



※広い応接間、30人ぐらいは座れそうな部屋である。大統領の写真に国章、国の置物等が目立った。

※招待客8人と大使夫妻で10人、多彩な顔触れであった。

※卓上の大皿、4枚重ね、いずれもブルキナファソ国旗のマーク入りである。酒はワインのみであった。

※ブルキナファソの料理、5〜6時間かけたと言う大使ご夫人の手料理である。鳥料理が多かった。

※この写真は4月、深川花見へ招待した時のもので、羽子板を手にご満悦の大使ご夫妻。

※晩餐会の最後に記念撮影。右から3人目が長女の18歳。

 当日晩餐会の始まる前に家族を紹介してくれた。長男20歳は今アメリカに留学中だが夏休みとかで日本にいた。長女18歳も紹介されたがいずれの子供達もちゃんとした挨拶でさすがに大使の子供はちゃんとした教育が行き届いているな〜と感心した。


 「ブルキナファソ共和国」について少々ふれてみる。
 アフリカ西部に位置し、海のない国で森林もないと言う。
 公用語はフランス語、人口は1,500万人世界で63番目の小国である。首都は「ワガドゥグー」と言い、国の大きさは274,000km2で72位と記されていた。
 この国の北はマリ、東にニジェール、南東にベナン、トーゴ、南にガーナ、南西にコートジボワールと国境に接する内陸国である。
 第二次世界大戦後、1960年(昭和35年)に「オートボルタ共和国」として独立した。独立後、フランスから離れて非同盟路線を歩み、東側諸国と友好を築いたが、1987年(昭和62年)以降はフランスとの関係を最重視していると言う。
 現在の国名ブルキナファソは1984年(昭和59年)に旧来の国名のオートボルタから改称されたと言う。


 少しさかのぼって、日本と対比しながらフランス植民地時代にふれてみる。
 1884年(明治17年)〜1885(明治18年)にかけて開催されたベルリン会議(アフリカ分割)でヨーロッパ列強諸国がアフリカ分割の動きを強めると、西アフリカにはフランスが進出し、1896年(明治29年)にワガドゥグーにあったモシ王国がフランスの保護領となった。1898年(明治31年)には現在のブルキナファソに相当する領域全体がフランス保護下に入り、1904年(明治37年)に周辺諸国と共にセネガルのダカールを中心とする広大なフランス領西アフリカの一部としてフランス植民地帝国を構成した。
 日本では1885年(明治18年)に内閣制度を創設し、第一次伊藤博文内閣が発足。1889年(明治22年)大日本帝国憲法が公布された。


 日本との関係について少しふれてみると1960年(昭和35年)、オート・ボルタ共和国の独立と同時に同国を承認し、1979年(昭和54年)より経済協力を開始。当初は食糧援助や肥料等の援助が中心で、水、教育等に協力分野を広げ、今では保健、農業、環境と協力分野が広がっていると言う。2009年(平成21年)1月に在ブルキナファソ日本国大使館が開館。経済協力分野に加え、日本国大使館や国際交流基金が主催する文化面での交流も活発に行なわれるようになった。また2009年(平成21年)には同国では初めてとなる文部科学省国費留学生選考試験が行われるなど人物交流も盛んである。初代駐ブルキナファソ特命全権大使は杉浦勉氏である。
 こんなことでフランソワ・ウビダ大使と交流が始まったわけだが、日本の良さを知ってもらい、少しでも多くの交流を重ねて両国間が親密になり、アフリカ諸国との国際親善に少しでも役に立てればこれ程の幸せはないと思っている。

平成25年8月25日 記


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