東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.165

〜歴史探訪 一人旅〜
津軽三味線創生期物語
古典流 清野(Seino)弾き語り

青木行雄

 

※上野公園の大木の広場、木の下で演奏していた。全国路上演奏中であった。
 
 
 
※「岩木山」の麓、津軽地方から津軽三味線は世に出て行った。

 ある日曜日の午後、所用があって上野公園の池の端を歩いていた。遠くから三味線の音色が聞こえて来る。どこから流れて来るのか立ち止まって聞きいると、はるかに見える蓮池の辺りからであった。近づいてみると公園の大木の下で演奏していた。しばしその場に釘づけとなり聞きいってしまった。その人が表題の「古典流・大内清野」その人である。全国を路上演奏中だと言う。
 その後彼の演奏会には必ず行き、年に2〜3回は私の会にもお招きし、演奏をお願いしている仲になった。

 

 彼のプロフィールを紹介する。
 青森県青森市出身で、ジャズベースのプロだった経歴をもつが、18年前津軽三味線に転身した。それ以来津軽でもすでに失われてしまった創成期の津軽三味線の音を探して研鑽を重ねていると言う。そして津軽三味線を創作した当時の門付け芸人達の思いの一端でも知りたいと考え、14年前に全国路上演奏を始めたと聞く。その路上演奏途中で私と知り合ったことになる。
 小学生時代には津軽三味線を、学生時代にはロックギターやジャズベースを弾き、長じてプロのジャズベーシストとして東京でライブハウス出演やレコーディング活動もした。
 しかし、自分の音楽表現の原点は津軽の三味線にあると気が付き18年前にジャズをやめる。そして津軽に戻って本格的に津軽三味線を始めるが、現在の津軽三味線は自分が幼い頃に聴いていたものとは随分違うことに気が付く。
 昔聴いていた音はまるで初期のアメリカンブルースの様に泥臭いがとこか魂を揺さぶるものだった記憶があった。
 その音曲を探す為に出来る限りのCDと生演奏を聴いてまわったが求める音はなかったと言う。
 故郷の津軽にももう無くなっていたと知る。(後年、差別のために消えてしまったことが判る)のである。
 そこで昔の津軽三味線は門付けの三味線だったことから、自分も門付けをしたら何か学べることがあるのではないかと思い、日本全国を路上門付けの旅に出ることになったのである。
 旅は延べ10年以上に渡った。
 やっとのことで求める音曲に出会えたのは、なんと2010年(平成22年)の事だった。2010年記念盤として一部発売された戦前の復刻盤を聴いたとき、紛れもなく幼少時代に聴いていた音、探し求めていた音がそこにあった。
 それは坊様(ぼさま)と呼ばれ蔑まれていた盲目の門付け芸人達の音曲だった。
 現在の津軽民謡三味線とは大きく異なる、より高度なテクニックと複雑なリズムを駆使したまさに創成期の緊張感と躍動感、そして情念に溢れた音楽だった。
 津軽三味線の本質が詰まった音楽だった。古いけれども、同時に最新の音楽だった。日本人にしか出来ない、日本独自の音楽だったのである。

 

 そもそも津軽三味線とは、
 名峰「岩木山」の麓、津軽地方で百年程前に津軽三味線は生まれて世に出たのである。
 しかし津軽三味線が世界から三味線音楽として認められ始めたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック前後からと言うことらしい。それまでは津軽三味線は邦楽三味線からは軽くみられ、どちらかと言うとバカにされていたのである。現在では日本の若者に最も人気のある日本の楽器になった。そして国境を越えて世界に広がり始めている。
 津軽三味線のルーツは「坊様」(ぼさま)と呼ばれた目の不自由な男性の門付け芸だったと言われる。津軽では坊様は「ホイド」(乞食)とも呼ばれ軽蔑されていたためホイド音楽とみなされていた。そのような悲しく惨めな歴史がある。
 清野氏が弾き語りながら、よく坊様と仁太坊の話しをされ、何回か聞いた。
 坊様・ぼうさまが津軽弁では訛ってぼさまと短くなる。昔、津軽地方で目が不自由になってしまった男性が三味線を演奏しながら家々を門付けして僅かの供物を貰って歩いていた人々がいた。津軽地方ではそんな人達を坊様(ぼさま)と呼んでいた。(三味線を持った坊主頭の座頭市をイメージしていいと思う)
 津軽三味線はそんな坊様達の中から生まれた音楽だと清野氏は言う。
 彼らは生きていくために必死で芸を磨き三味線の技術を磨いていった。
 現在では津軽三味線は津軽民謡の伴奏音楽として存在しているが、坊様時代は聴衆が喜んでくれるものなら何でも芸にして演じたと言う。そんな津軽三味線の原型をつくったのが、ある一人の坊様だった。その名が「仁太坊」と言う。
 江戸幕末生まれで本名は神原村(かんばらむら)の仁太郎(にたろう、明治になり秋元仁太郎)といったそうである。幼少にして病で盲目になり生きるために門付け芸人となる。
 彼は江戸時代の身分制度の中では最下層の生まれで(身分外)そのために正式に三味線を習うことも正式な舞台に上がることも出来なかった。
 子供時代に神原村にやって来た流れゴゼ(越後地方にいた盲目の女性芸人)に習ったと言う。その後、彼は独学でがんばった。
 奇跡的に彼の音曲の一部が語り継がれている。彼は10代後半になり、三味線と笛、尺八をもって門付けに歩きまわる。一軒一軒家を回りながら一にぎりの米を恵んで貰うために。映画で見る勝新の演じる座頭市もこんな様子かも知れない。
 津軽三味線も奥行が深くだんだん深海にはまって来たが、仁太坊の話をもう少し続ける。
 やがて彼は結婚することになる。その結婚が彼の三味線人生を大きく変え、現在の津軽三味線が生まれていく経緯となるのである。

 

 仁太坊の結婚と津軽三味線の誕生
 仁太坊の結婚相手はイタコと呼ばれた盲目の霊能者であった。
 お互い盲目ということで夫婦になったと言われる。イタコとはいわば女性のシャーマンである。恐山のイタコと言えば有名で霊能者で知られる所だが、イタコになるためには相当厳しい修行と霊能者としての素質が求められる。だからイタコになれるのは本当に選ばれた一部の者だけである。仁太坊の妻になった彼女の名前は「マン」といい、とても優秀なイタコであったようである。
 マンと一緒になった仁太坊は持ち前の好奇心と向上心でイタコの修行に興味を持ったと言うのは、イタコは口寄せをする時は無我の境地になり、まるで神仏に導かれるような状態になる必要がある。そこで仁太坊は本物の三味線を弾くために自分も無我の状態で弾くことが必要だと考え、イタコがやるような厳しい修行を体験し習得したいと考えたのである。そこで彼女にイタコの修行を体験したいと申し出る。
 それは七日間に亘って断食をしながら不眠不休で祝詞を唱え、かつ、三味線を弾き、笛を吹き続けて、とうとう最後には失神してしまう過酷なものだったと言う。仁太坊には霊的な素質があったのだろう。見事に達成したのである。そして失神から目覚めて三味線を手にしたとき津軽三味線の基本となった撥で糸を叩き付ける奏法が生まれたと言うのである。
 そしてその時から霊的な能力も開花した。その後彼は占いや予言のようなことも始めた。こんな経緯でこの津軽三味線が生まれたと聞くと劇的に思える。だからこの津軽三味線が人々を魅了し、すばらしい音楽に発展していったと言えるのかも知れない。
 そんなわけで、清野氏の弾く、古典流津軽三味線にことの他魅せられて聞き続けている。音楽はすばらしい。又、この津軽三味線も歴史を勉強して更にすばらしい音楽なのだと心にしみて来る。





恐山菩提寺 総門

平成25年10月31日記


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