東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(83)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 前回に引き続き、購読した、内田康夫著 ミステリー『壺霊』の舞台は京都でありました。桓武天皇の英断による遷都(794)以来1200年以上の伝統を誇る古都は歴史の宝庫であります。ルポライター浅見光彦氏が、京都の銘店食べ歩きの取材をする途上で、紫式部という銘を持つ壺の由来を、京美人達と探求するうち、殺人事件に遭遇し、茶わん坂、嵐山、保津川下り等を堪能しながら謎を解いて行く、という筋書です。京都をほとんど知らない私でさえ、思わず引き込まれてしまうのは、1200年の歴史と著者の巧みな設定によるものでありましょう。

 当社グループの事業所は東京から北方にあります。永年仕事で往来しているうち、途中の行程で古来からの史蹟が見え隠れしていることが少しずつ解って参りました。今回は、事業所を訪ねて歩きながら歴史探訪をします。

 上野発7時のスーパーひたちで北へ向いますと、泉駅に9時10分に着きます。茨城と福島の県境になっている大津港のトンネルを抜けると勿来駅に停車します。

 『吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな』勿来駅のプラットホームの柱にある、八幡太郎義家が詠んだ和歌です。国道六号線は武将達が奥州征伐に向かう経路でもありました。県立勿来工業高校からは、何人かの卒業生が入社しております。いわき市は常磐五市が合併し、当時では日本一の面積を誇っておりました。市内には勿来、植田泉、湯本、内郷、いわきと六駅がありました。

 当社の事業所は泉駅から小名浜港に向って至近の位置にあります。一説によりますと、平安時代奥州の雄、藤原一族が栄華を極め、平泉に中尊寺を建てましたが、平泉から一字ずつとって、平と泉と名付け、藤原氏の統治下に置いたと云われています。

 湯本は炭坑と温泉で栄えておりました。石炭は小名浜から京浜方面に運ばれ、火力発電や機関車の動力となりました。石炭が斜陽になってから、常磐炭坑では坑内から沸くお湯で、常磐ハワイアンセンターを創り、フラダンスのショーと温泉で多くの客を集めました。

 昨年3月の震災で一時閉鎖されておりましたがフラガール達の活躍もあって見事に蘇りました。JR常磐線はいわきから岩沼を経て仙台までですが、野馬追で有名な相馬に当社の駐在所があり、港に輸入原木を揚げて商っておりました。

 野馬追は相馬藩に伝わる伝統行事で、講武、練兵の目的で野飼いの馬群を追い捕えたことが起源とされています。今では7月23日〜25日開催が恒例で、甲冑に身を固めた騎士が、花火と共に打ち上げられた旗を奪い合う勇壮なお祭りです。昨年は震災で中止となりましたが、関係者の尽力とまわりの支援により復興のシンボルとして再開されました。

 いわき駅から郡山に向って磐越東線が走っております。小野新町までは一時間弱で着きますが1日に6本しか便がありません。小野新町から郡山までは1日14本の便が出ています。人材の募集に県立小野高校へ行き、駅から往復1時間で戻って来ても、次の列車まで時間がありますので、周辺を散策して居りますと、小野篁(おののたかむら)屋敷跡が発掘され、史蹟となっておりました。小野篁と云えば、平安時代の学者で、昼は朝廷に仕えておりながら、夜になると密かに寺院の中にある井戸から黄泉の国へ通って行き、閻魔大王の元で働いていたと云われております。陰陽師(おんみょうじ)という摩訶不思議な小野篁の屋敷があったことで、この辺りを小野郷と呼ばれ、六歌仙の一人才色兼備の小野小町との関係も取り沙汰されて、美人の里という噂も出たのでしょうが、真相は謎のようです。磐越東線の沿道は山あり谷あり、田園風景も展開し、船引駅に着きます。船引高等学校までは駅から往復30分かかります。次の要田駅の近くには当社創業者出生の地があります。次の三春駅は三春駒が有名で、伊達政宗に嫁いだ愛姫(めごひめ)の里とも云われる五万石の城下町でありました。冬に閉ざされた里に春が来ると、梅、桜、桃が一度に咲くことから三春という里の名になりました。もう200年以上咲き続けている滝桜もあります。三春駅から徒歩15分で県立田村高校があります。清水寺を創設開山し、初代の征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途上拠点としていたこともあり、地名の由来となりました。三春駅は郡山の至近の位置にあります。

 郡山は当社グループ物流の拠点として子会社があり、いわき、山形、仙台、盛岡に支店を擁していたこともありましたが、今ではその役目を終え、跡地はコジマ電気他に賃貸しています。他に原木商売の拠点として酒田港に置場が一万平方米あります。山形県新庄の近くに商社と共同出資をして、LVLという製品を加工して居りました。1878年、英国の旅行家イサベラ・バード氏が来日し、5月横浜を出発、18歳の青年を案内人に、北海道までを旅行し、1880年、『日本奥地紀行』を出版しベストセラーとなりました。LVLの工場があったとき、製品を内装に張った学校を見学に行きました。金山という町でしたが、校庭にイサベラ・バード氏が寄ったという記録が訪問後百年を記念して石碑が建てられておりました。

 郡山から東約200粁で磐越西線は新潟に着きます。沿線は会津に到るまで得意先がありました。幕末から明治維新にかけて、時代の変遷の間で翻弄され、若い命を散らした会津城白虎隊の悲劇は涙なくして語ることはできません。以上駆け足で綴って参りましたが、仕事を通して知ることが出来た各地の史蹟は生涯忘れることのない思い出となることでしょう。




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