東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(87)

江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎

 今年は厳冬で、諏訪湖では、御神渡り現象を見ることが出来ました。にも拘らず、春の到来は意外に早く、新年度が始まる4月1日まで桜が散らずに待っていて呉れたのは自然の粋な計らいではないでしょうか。ところが2日、3日の雨と風で散ってしまい、昔覚えた小唄の文句を思い出しました。「春風さんよ ぬしの情けで咲いたじゃないか なぜに吹いたかゆふべのあらし」
 3月21〜22日は東海道ネットワークの会の例会が「熱田宮宿から脇往還佐屋路を楽しみ桑名へ」と銘打って実施されました。今回は佐屋路、桑名宿の散策を楽しみ歴史探訪をします。東海道中は宮宿より桑名宿まで七里の渡しと云って、海上28粁の船便がありました。ところが船内にトイレはなく、婦女子や高貴な人はこれを嫌い、陸路を行きました。これを脇往還佐屋路と云い、岩塚、万場、神守、佐屋と4つの宿場がありました。
 宮宿の目玉は熱田神宮と七里の渡し跡です。
 今年は熱田神宮創祀1900年に当ります。景行天皇の御代43年(西暦113)、日本武尊が御東征の後、草薙剣を熱田の地に祀られたのが熱田神宮の始まりと云われております。これも1994年に平安建都1200年、2020年に平城京遷都1300年のように確たる根拠がない為に、境内案内図の隅に小さな字で創祀1900と記されています。
 七里の渡し跡はバスの中から眺め、新尾頭の道標を左折し、佐屋街道を行きます。最初の目玉は荒子観音寺です。多宝塔は室町時代の建築で重文。山門に円空作二体の仁王像があります。円空は江戸時代、64年の生涯で12万体の造仏を誓願したと云われておりますが、現存しているのは1243体です。他者救済に生涯を捧げ、その生き様は映画となり、2012年文科省選定、米国ルイビル国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞、東日本大震災で被災した人々にも、380年という時空を超えて大きな力と生きる勇気を与えております。
 鳳凰山甚目寺は、名鉄津島線甚目寺駅から至近の距離にあります。推古5年(597)創建、南大門、三重塔と仏涅槃図、不動明王像は重文。昼食はあま市七宝町沖の島東流にある南島(なんとう)という料亭で郷土料理を頂きました。あま市は元海部郡で、七宝発祥の地があり、陸地にあって沖の島とはこれいかに。昔は海であったのが埋め立てられて陸になったと思われます。

 午後は400年の歴史を誇る堀田家でボランティアの方が2名待機されており、案内して下さいました。敷地2000m2、建物1000m2平家で、壁は漆喰ですが、ひび割れの心配がある為、杉板で覆われ、火災時にはフック金物を引っ張って剥がす工夫がなされています。防火用のうだつ)、盗賊よけの忍び返しもあります。
 堀田氏は津島神社の神官之定の次男之理を初代とします。福島正則が清洲在城中、中小姓として仕えておりましたが、正則の芸州への領地替えを機に津島に戻って雑貨商、酒造で蓄財、その後新田開発も手がけ、尾張藩より名字帯刀を評されました。6代知之は商業だけでなく、神道や漢学などの学問、和歌や俳諧、茶の湯まで嗜む文人として知られ、建物の隅々まで堀田家の心配りが行き届いているように感じました。
 今日の最終スポットは佐屋宿三里の渡し跡です。芭蕉が野ざらし紀行で元禄7年(1694)伊賀に帰る途中、佐屋在住の弟子山田宅に草鞋を脱ぎ、吟んだ句碑があります。「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊」
 長島温泉に一泊、翌朝10時にマイクロバスが迎えに来ます。今日は桑名宿を散策、狭い地域に見処が所狭しと溢れておりました。
 桑名駅のプラットホームに、駅開業100年を記念して、中原中也作「桑名の駅」と題して詩碑が建てられました。
  桑名の駅は暗かった
  蛙がコロコロ鳴いていた
  夜更の駅に駅長が
  綺麗な砂利を敷き詰めた
  プラットホームに只独り
  ランプを持って立っていた
  ……………………
  (1935. 8. 12)
 この詩碑の形が桑名名物はまぐりのようでもあり、又後に案内してもらった七里の渡しの突端の地形のようでもありました。
 駅前からボランティアの田中さんが市内を案内して下さいました。順不同に列記します。
 海蔵寺 宝暦の治水工事で死んだ薩摩武士の墓所 家老平田靱負以下24名が工事失敗の責任をとって切腹しました。幕府の圧政が後年倒幕のきっかけになったのではないか。
 浄土寺 桑名初代藩主本多忠勝の墓があり何故か鳥居が立っています。昨夜の宴会の席上で秋庭会長が、「神仏習合」については我々日本人がいずれ決着をつけなければならない、と仰っていたのを思い出しました。
 桑名城跡九華公園 桑名城は初代藩主本多忠勝によって築かれ、後に松平11万石の城となり明治維新まで引き継がれましたが、戊辰戦争で官軍の猛攻を受けて焼尽しました。私が東海道を歩いた20年前、見る予定でしたが体調を崩し叶いませんでした。今日は広重描く浮世絵「桑名」にある城を見るのが楽しみでありましたが私の夢はまぼろしとなりました。
 大塚本陣跡旅館船津屋 劇作家で俳人久保田万太郎が逗留し「歌行燈」を書き上げました。「かわおそに火をぬすまれてあけやすき」の句碑がありました。泉鏡花の「歌行燈」では湊屋という名で登場します。
 桑名城の三の丸跡に本田忠勝の銅像があります。脇にとんぼ切りと云われた長い槍が立ててあります。忠勝は徳川四天王の一人でありました。猛将武田信玄をして「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭と本多平八」と云わしめたことで知られております。
 これと似たような譬えが春日神社(桑名宗社)で見られました。寛文7年(1667)創建の青銅の大鳥居が建っており、桑名音頭に「伊勢の桑名に過ぎたるものは銅の鳥居と二朱女郎」と謳われております。昭和34年(1959)伊勢湾台風で水没したときの傷跡が地上1mの位置にありました。

 お昼はレストラン・ロッカでフランス料理と洒落込み、午後からは同じ敷地にある六華苑(旧諸戸清六邸)でジョサイア・コンドル設計による四層塔の洋館と諸戸家が贅を極めた和館に池泉回遊式庭園などがある近代文化遺産(重文)を見学しました。諸戸氏は日本一の山林王と云われました。専属のボランティア氏が待機されており、諸戸家の発展と事業の成功物語を熱心に語って下さいました。他にも数々の名所がありましたが、14名の一行は、息つく間もない程に、ガイド氏の案内でエネルギッシュに歩き、名古屋までのバスに乗ったときは全員疲れてぐったりとなってしまいましたが、天候に恵まれ、杉井会員の素晴らしい企画により有意義で楽しい二日間でありました。


  




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