東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(89)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 去る5月25日、東海道ネットワークの会の例会があり、テーマは、「江戸切絵図で歩こう 江戸の坂」と題し、東京駅丸の内南口を基点に、坂学会会長松本氏の案内で20名の仲間が勇んでスタートしました。配布された三枚の切絵図は、嘉永2年(1849)−慶応元年(1865)で江戸末期のものです。
 この界隈は大名屋敷が殆どで、名前の頭の先に門があったことを教えられました。徳川家から娘が嫁ぐと松平姓を名乗る仕来りがあり、かなりの屋敷が松平姓です。スタートして皇居方面に向いますと、大名小路が交差しており、馬場先御門の南側に、林羅山を祖とする幕府儒学者、林大学頭屋敷があり、現明治生命は定火消御屋敷で、安藤広重はここで生まれました。この辺りは日比谷の入江を埋めた造成地です。馬場先門から皇居前広場に入りますが、ここも大きな大名屋敷が軒を連ねておりました。今は砂利敷の広場で、皇居一周ジョギングに参加する百人程のグループがスタートする処です。
 桜田門は今修理中の為近づくことは叶わず。
 一行は、日比谷御門より出て内堀通り沿い時計回りに行きますと、先刻スタートしたジョギンググループの先頭に出会います。
 尾崎憲政記念館の時計塔の方向に、井伊掃部頭の大きな上屋敷がありました。井伊家の門から桜田門までは200m程の距離です。安政7年(1860)3月3日、水戸浪士らによって直弼が乗る駕籠が襲われたときは、行列の最後尾が未だ屋敷の門を出ていない状態であったようです。現最高裁判所の敷地に三河田原藩三宅家上屋敷があったことから、今でも三宅坂と云われておりますが、この辺りから梨の木坂を上り始めますと、国会図書館を右に見て、更に右折しますと参議院通用門があります。
 梨木坂とは、井伊家裏門の辺りに梨の木があったことに由来します。国会議事堂の裏を直角に曲って山王坂を上り切りますと、日枝神社の山門があり、更に女坂、男坂の上に鳥居があって境内は、新郎新婦の晴れ姿、お祝いに集まった招待客で大賑わいです。部外者の我々一行も、お祝いのお裾分けを頂き、「おめでとうございます」と声を掛け、しばし疲れを忘れます。その後、急な石段を下りますと、賑やかな内堀通りに出ます。弁慶橋を渡って紀尾井坂の途中、右側に清水谷公園があり、ここで明治11年(1878)5月、大久保利通が暗殺されました。西南戦争が終り、西郷隆盛を慕う士族たちが、征韓論に異を唱えた大久保を襲いました。当時皇居は修理中で、坂の上紀州家に仮御所がありました。大久保は明治天皇に会いに行く途中の出来事でありました。
 紀尾井坂とは、紀州家、尾張家、井伊家の三邸に囲まれていたことに由来します。坂の頂上を喰違見附と呼ばれておりました。これは見附門にはいる外濠への渡道を三家が防衛上ジグザグに作っていたことに由来します。
 ホテルニューオータニの脇を通り、お濠を見下しながら行きますと、紀之国坂の信号があり、ここが紀州家の門でありました。この辺りは人通りが少なく、淋しい坂でありました。
 小泉八雲が書いた『怪談』の舞台になりました。「ある男が坂の上で顔の無い『のっぺらぼう』に出会ったので、怖くて坂を駆け下り、下に屋台がありましたので主人にその話をしますと、主人は『それはこんな顔でしたか』と云って着物の袖で顔を撫でると・・・」
 お濠脇の赤坂見附地下鉄入口で解散となりました。以上数時間で江戸城周辺の大名屋敷跡を坂学会松本会長の案内で散策して参りましたが、切絵図から、当時の立体的な三次元の屋敷群を想像することは困難でありました。
 そこで、最近頂いた天川淳様の投稿「都市計画家徳川家康に学ぶ」を縁(よすが)に、江戸城郭を中心に百万都市が形成される過程と重ね合わせて歴史探訪をします。
 天川様は本稿を起草するに当って、『東京百年史』東京都、『江戸時代の古地図をめぐる』山下和正著 NTN出版、『塵劫記』吉田光由著 岩波書店、等27冊もの厖大な書物を読破して取り組んでおられます。
 氏の胸中の根底にあるのは、スーパーゼネコンに奉職され、数々のプロジェクトに携わって培った土木構造物への思い入れから、徳川家康の偉業に触れ「如何に家康は偉大な事業家であったことか」と改めて認識し、最後は心から敬意と感謝を籠めて「ありがとう」と締め括っておられます。
 豊臣秀吉は、小田原征伐で勝利を確信したとき、家康を誘い、城を見下す山の中腹から共に放尿しながら「三河殿に関八州を進ぜよう」と云いますが、これが後に有名になった「関東連れ小便」でありました。秀吉は最大のライバル家康を大阪から遠ざける意図がありましたが、家康は一言の不満も漏らさず、これを甘んじて受けました。
 入念な調査の上、国家百年の計を立て、先ず神田台地や湯島から土砂を削って、日比谷の入江を埋め、大名屋敷の用地を造成し、更に江戸城を中心に堀を渦巻状に巡らし、無限に発展可能な都市計画を志向しました。
 都市に欠かせない飲料水を井の頭から曳き、神田上水とし、その後は後継者が玉川上水を曳いています。諸国の大名に命じて道三堀、小名木川水路を開削させ、水運による物資の運搬に供し、大名の力を削ぎました。
 『千代田区史』にある、江戸城外濠、内濠建設の工程を見ますと、慶長5年(1600)−寛永13年(1636)という短期間で江戸城を中心にまちづくりが進んだ過程を知ることが出来ます。江戸中期には人口は百万を超えますが、これは世界でも類を見ない発展振りでありました。その結果250年間もの間平和が続きました。
 明治維新後30年程で時の為政者が外に向って領土拡大と覇権を夢見ては失敗を繰り返すのは、家康に学んでいなかった為と云えるのではないでしょうか。
 秀吉は晩年、朝鮮侵攻を企て、途中で命運が尽き、大きな禍根を残しましたが、家康はナンバー2として、これを止めることが出来なかった反省も籠めて、定期的に朝鮮通信使の招待を行い、両国間の関係修復に努めております。明治以降の為政者たちが家康に学んでいれば、我が国は欧米列強に伍して競うこともなく、今の尖閣列島や竹島の問題も無かったかも知れません。
 江戸末期の切絵図を見ますと、江戸城を中心に大名、藩士、商人、職人達の住居が整然と配備され、中央集権の形を整った姿で見ることが出来ます。この体制が全国津々浦々まで浸透し、当時の人達の働きによって、今の我々の生活が成り立っていることが分かります。天川様が徳川家康に「ありがとう」と云うように、私達は仕事を通じて家を支え、国を支えた人達に感謝するべきであることを天川様に教えて頂きました。



1 東京駅
  松平(大河内)三河守上屋敷 三河吉田藩 7万石
  水野肥後守上屋敷      上総鶴牧藩 1万5千石
  松平(戸田)丹波守上屋敷  信濃松本藩 6万石
2a中央郵便局
  本田美濃守上屋敷      三河岡崎藩 5万石
2b丸ビル
  松平(池田)内蔵頭上屋敷  備前岡山藩 31万5千余石
3a三菱一号館  b帝劇
  松平(池田)相模守中屋敷  因幡鳥取藩 32万5千石
4 明治生命館
  定火消御役屋敷(幕府直属の消防組織)
  安藤広重生誕地
5 岸本ビル
  林大学頭屋敷 林羅山を祖とする幕府儒学者の家
6 皇居前広場(江戸城西の丸下郭)
7 桜田門


7 桜田門(外桜田門)
8 井伊掃部頭邸跡
  (彦根藩井伊家上屋敷)
9 三宅坂と三宅備前守邸跡
  三河田原藩三宅家上屋敷跡。
10 梨木坂
11 山王坂(別名:鹿島坂)
12 日枝神社
  山王男坂・山王女坂・切通坂
13 新坂(別名:遅刻坂)
  和泉岸和田藩岡部家の上屋敷跡。
14 三べ坂
  岡部筑前守、安部摂津守、
  渡辺丹後守の三邸に由来した坂名。
15 赤坂御門跡(赤坂見附)
16 富士見坂(別名:水坂)
17 弁慶橋
18 清水谷公園
19 紀尾井坂
  紀州家、尾張家、井伊家の三邸に由来
20 喰違見附跡
  紀伊国坂(紀之国坂)
21 紀伊和歌山藩中屋敷(現・赤坂御用地)




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