東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(93)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 10月7日、大学卒業50周年行事がありました。私達は、理工学部土木工学科昭和38年卒業です。海外旅行や、温泉一泊ゴルフ等多くの案の中から最も要望の多かった「隅田川十二橋めぐりとスカイツリー&ゲートブリッジ散策」に決定しました。
 今日は、はとバスや遊覧船に乗り、隅田川、東京湾に架る橋を、下から、空から、地上から眺め、水辺の東京の変遷について歴史探訪をします。
 江戸時代には隅田川に千住大橋、両国橋、永代橋が架っておりました。葛飾北斎の江戸百景には雨の降り頻る千住大橋を描いた不朽の名作があります。
 赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、引き揚げるとき目と鼻の先にある両国橋を渡らずに永代橋へ向かったのは、警戒が厳しかった為と思われます。
 日の出桟橋を出航し、隅田川を遡り、浅草に着くまで十二橋をくぐります。

@ 勝鬨橋 明治38年 日露戦争で旅順陥落に因んで名付けられました。中央の桁が八の字状に開いて勝鬨を上げているようにも見えます。昭和46年を最後に開いたことがありません。大型船の通行がなくなったことと、地上の交通が頻繁になり、40年以上開いたことはありません。モーターなどは外され、再設備して開くには8億円の費用がかかります。
A 佃大橋 昭和39年架橋 以後、離れ島が陸続きになり佃の渡しは廃止されました。江戸時代の初期、大阪摂津、佃の漁民が家康に呼ばれて埋め立て地に住み漁業権を与えられました。捕った魚を煮て味付けし元祖佃煮となりました。
B 中央大橋 隅田川で最も新しい 永代通りを通行中、渋滞を避けて信号を曲ったら、素晴らしい橋に出会い、感動しました。
 桁を吊るワイヤーが帆の形をしており美しい。
C 永代橋 江戸期 深川のお祭で多勢の人が渡り、橋が落ちて亡くなりました。
 関東大震災の被害で大正15年スチールアーチ橋で再架橋 今はアーチが青い照明に映えて美しい。
D 隅田川大橋 首都高速が箱崎-木場方面に延伸し二段の橋となった。
E 清洲橋 昭和3年架橋 自碇式鋼鉄吊り橋 ヨーロッパの有名な橋を模して架けられた。
F 新大橋 昭和40年頃老朽化の為再架橋 元の橋は明治村に移設
G 両国橋 西は武蔵 東は上総 二国間に架けられ両国橋と命名された。昭和7年、鋼製桁橋で再架橋
H 蔵前橋 昭和2年竣工 鋼コンクリート道路橋
I 厩橋 昭和4年 タイドアーチ橋で再架橋 早稲田から厩橋行第39系統都電が走っていた。
J 駒形橋 震災復興で中路式ソリッドタイドアーチ橋で昭和2年竣工 女児がはく駒下駄の形に似ているのが名の由来か。今は畔りにある「どぜう屋」 むぎとろの店が有名
K 吾妻橋 倭健命(ヤマトタケルノミコト)が東方征伐で東京湾を渡るとき、時化で荒れた海を静めようと、妻の弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)が身を投げ、倭健命は「あづまはや」と叫んだ。ひめの衣服が流れ着いた処に寺があり、吾妻寺と名付けられ、架けられた橋は吾妻橋となった。昭和6年、3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋で再架橋。

 ここで、はとバスが迎えに来てスカイツリーまで行き、中段350mの上空から、今下をくぐって来た橋たちを一望のもとに眺めることが出来ました。少し上流に見下ろす言問橋
 昭和3年竣工 3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋 橋名の由来は、在原業平が著した『伊勢物語』の「東下り」で主人公が隅田川を渡り、都鳥を見て「あの鳥は何と云うか」と船頭にたずねたという故事による。
 隣に歩行者専用の桜橋、X形をしており、両岸の住民交流の場となっている。いつか来た時、凧を揚げている人もいた。
 はるか上流に見える白髭橋 昭和6年 下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋で再架橋 重厚な佇まいである。
 隅田川はこの先左へ大きく曲っている為、千住大橋は見えません。最上段の450m展望台から見えるかも知れませんが、今日は時間が無く、無念の思いで下りのエレベーターで、食事後はとバスの待つ地下駐車場へ。
 バスは首都高速に入りレインボーブリッジを渡ります。平成5年架橋、径間距離870m 柱の最上部と海面では径間距離12pの違いがありますが、これは地球が丸い為。
 今日の圧巻は東京ゲートブリッジです。下は中央防波堤が埋立造成中で、完成の暁には植林に覆われ、2020 東京オリンピック開催時、水上競技、馬術競技場となります。
 車中で元三菱重工勤務、学友O氏より説明がありました。東京ゲートブリッジは「神経」を持つ橋梁で、48個のセンサーにより、1秒当り2800のデータを測定し、健康度を監視します。総工費1,125億円。リベットはほとんど見られず、高度な溶接技術によりスマートな鉄骨構造が実現しました。1日当り交通量2万6千台。コンテナ輸送の増加に伴い、東京周辺の混雑緩和を目的に2012年2月開通。2012年末、中央自動車道笹子トンネル事故を契機に、前記維持管理センサーが登場し、日本中にあるインフラの劣化を見届け、事前に事故を防ぐシステムが広く活躍することが期待されます。
 はとバスはキャンプ場脇の駐車場で待機、ほとんどの人がエレベーターで上り、橋上の歩道を歩き、橋の中央から雄大な、東京湾の景観を堪能いたしました。
 はとバスは一路、新装になった東京駅に向かい、ステーションホテルで宴会となりました。
 今日は大盛会で、卒業時87名の学友は物故者17名で生存者70名となりましたが、その中で41名が出席しました。遠くは、長浜、名古屋、宇都宮、熊谷、長野、福井からも馳せ参じ、2020 東京オリンピックまで元気で頑張りましょうと声を交わしてお開きとなりました。肩を組んで歌った校歌の三番から「集まり散じて人は変われど仰ぐは同じき理想の光」





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