東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の16

花 筏


〜木場歳時記〜

其の五 初詣、イロハ 三態の内

 深川・木場には、初詣の名所が二つ有り、一つは前述の「富岡八幡」、あとの一つが、ロ、「成田山・深川不動堂」、近頃はこちらがメインで八幡様がサブだと思っている方が多いようだが、これは逆、もともと現在のお不動さんの本堂が有る場所には、八幡宮の開祖・長盛上人の仮居があった。そこへ京都の仁和寺から「大栄山・永代寺」と謂う立派な山号・寺号が贈られ、八幡宮の別当寺院となる。その永代寺の門前町として発展したのが、「門前仲町」である。よって深川の町の形成に今のお不動さんは何ら関与してはいない。昔より宗教界はこの神仏混交のスタイルが一般的で神社も寺も同一オーナーが多かった。
 そして江戸も中期の元禄の頃になると千葉の片田舎の成田から「成田山・新勝寺」が御本尊の不動明王を担いで江戸へ出張(でば)って来て、蔵前や日本橋などの人出の多いアチラコチラの繁華街で「御開帳」をする様になり、その時にヒサシを貸したのが「永代寺」。
 その後、明治の神仏分離令により、神仏の共同経営はまかりナランと天下を取った維新政府が言い出しスッタモンダと大混乱の末、富岡さん家(ち)は神社(八幡様)を残してお寺(永代寺)を潰す事となった。その空いた母屋(本堂)に移り住んだのがヒサシ借りをしていた今のお不動さんで明治11年(1878)の事である。よって深川では不動は八幡より250年も後発と言う事なのである。
 この突然降って湧いた様な「神仏分離令」により、「成田山」さんは濡れ手で粟と言う、棚からボタモチ式の大変な僥倖に恵まれることになった。この変革の趣旨から言ってもお寺(永代寺)が消滅して、又、お寺(不動堂)が出来る、という事は理屈に合わぬが、これが歴史の綾であり、ツキなのであろう。そのツイている上に歴代住職がこれ又商売人、八幡様と違い世襲制では無い為か釈迦力で頑張る。この数年で、本堂、庫裡、社務所の改築を全面的に行い、天井にまで龍の絵を描いて手をタタクとその龍がギラギラと輝く、子供と年寄が泣いて喜ぶ装置を作った。今年の初詣でも昨年よりは一段とニギニギしく、電飾コウコウ、拡声器ガンガン、で般若心経を流し、呼び込みに大童(おおわらわ)であった。参道の両脇には名代の店も軒を連ね、夜店の屋台も数多く出て、キャッチ・フレーズも「人情/深川・ご利益通り・深川不動尊」とカラフルに染め上げたフラッグを仲見世の左右、アッチコッチに幡めかし雰囲気を盛り上げている。世の善男善女も現金なもので周りがチト薄暗い八幡宮よりも大巾に群がっている。
 併し、小生は会団等の祈祷は別として、個人的には「成田山」には参拝しない。その理由は至って単純、その一が、その昔、坂東で独立宣言をして「新王」を唱えた平将門を呪詛し藤原貞盛と俵藤太の連合軍に首を挙げさせた事。お陰で両名の名も「成田山」も一躍その名はビッグに成ったが、将門ファンとしては腐敗政治を打破と言う理念からも、今いち承服し難い。第二は、戦時中は「敵国調伏」「御敵退散」を唯一のお題目として、朝から晩までバンバン護摩を炊いていたのに、負けた翌日から「交通安全」「学業成就」に衣替えとは、いくら何でも調子が良すぎるのでは、と思う次第。せめて三日位休めょ〜。
 真言密教の「密教」とは、「呪詛・調伏」(祈り殺し)が奥義にて、その為に護摩を焚いて、その炎の中に現れる不動明王に祈る…お寺は寒いので焚火をして暖を取っていると言う解釈は誤り…。依って一日五回もゴマ木(良質の白木の無節)を燃やす。その量たるや、全国ネットのメジャーな宗派なら、お符札と塔婆の数の総計は相当なボリュームになる。護摩木を焚くのは「ワリ箸」とは違い誰も文句を言わぬが、自然破壊、信教の自由の観点から見ると相当に問題が深いのではなかろうか。併し木材消費の面から見れば「お寺さん」は木材業界にとっては大変に有り難い存在である事には間違い無い。

ハ、「明治神宮」ご存じ、初詣では例年ダントツ日本一の社(やしろ)である。
 毎年、新年の低頭には行くが、人出の多い三ガ日は遠慮をして特に日は決めずして、松の内の天気の良い日に参拝をする。今年は11日に参上したが、未だかなりの人出があり名物の大賽銭箱が健闘中であった。今迄の深川の真夜中のお参りとは違い、空気は冷やっこいが陽光燦々たる中で木々の緑と長い参道の玉砂利の音とは不思議にマッチし神前に着く頃には、それなりのシックな気持ちに成っている。家族連れや年配者が多く目に付くが、大概の善男善女は信仰よりは物見遊山の雰囲気で、あちこちキョロキョロしながら記念撮影している。
 向かって左の社務所でご祈祷の用紙を貰い(祈祷料は、3万・1万・5千・3千。但し5千円以下はお符札に名前は書かれません)、氏名・年齢・住所・祈祷の主旨を明記して提出し待合室で待つこと数分、50名ほど纏まるとアルバイトの俄か宮司の先導で内殿参拝所にて二礼二拍手一礼の後、右手の神楽殿へ各々履物をビニール袋に入れ手に持って昇殿。この殿舎は新築のピカピカで内陣と外陣合わせて500畳位、内陣には主神の明治天皇の御真影と鏡が有るハズだが、御簾(みす)が掛かっていて判然とせず、一段下がって神主の座があり、又、一段下がって300畳の一般席、その畳に入れ込みで座り、ややあって神主のお出まし。祝詞奏上の後、祈願料ご寄進の主旨と氏名を読み上げて退席。入れ替わって、鉦・箏・笛の楽士3名が着座し演奏開始と同時に美形の巫女2名が古代装束で現れて「年賀の舞」を舞う。一瞬、天平の時代に遊ぶ心持ち、この間、約15分、終わって右手の畳廊下で屠蘇をゴックンして、お符札の他にロゴマーク入りの引出物を一式貰い、内玄関より現世の中へ三三五五と別れ行く。

ニ、番外にて、豊川稲荷・東京別院…赤坂
 こちらにもチト顔を出す。こっちの参拝客は前の三ヶ所とはガラッと様相が違い真剣そのもの。目付き、身のこなし、歩き方からして違い、拍手や鑼(ドラ)の鳴らし方も気合が入っている。「稲荷」は元来は農業の神様なれど、ここ赤坂の地にては水商売の守護神に変身。道理で御寄進の金額の刻まれている石碑のすさまじい事、一見に値する。流石に花のお江戸のド真中、バブル全盛時の狂乱が目に見える様でご猿。
 小生は以前お稲荷様こそ植林の神様であると聞いた事があり、以来お参りをしている。その謂れは京都の伏見稲荷にあり、この稲荷は深草の秦氏(聖徳太子に仕えた秦河勝)の氏神にて天平時代に書かれた「山城国風土記」にその伝承や因縁が詳しく書かれている。それにより、京都の人々は今でも初午(はつうま)が来るとお稲荷さんにお参拝をし、そこで「杉」の苗を買い家に持ち帰って植える習慣になったとの事。さすれば、1300年もこの行事は続いており、正に「全国植樹祭」のルーツである。故に材木屋は稲荷明神をアダや疎(おろそ)かにしてはなんね〜のである。
 巷の伝承として墓地はイイが神社の跡は「止めとけ」と言うのがある。何故だんねん?と思われるが、確かに商売家は不思議と潰れる、主が変わっても代々に亘って潰れる。深川にも確実な場所が何個所は有る、地ベタのルーツを辿ると100%「稲荷」の跡地。思うにその地に稲荷を勧進した時は飛ぶ鳥を落す勢いの時にて盛大に祭りをするが、落日には還座の儀式もせずにブン投げてドロンをするので神様がヘソを曲げるのであろう。いずれにしても値段だけに惚れるとロクな事は御座んせん、神様は怖い、よくよく故事来歴を調べられるのが宜しおます。そのコワイお稲荷さんは神社では全国トップの3万2千社余も御座るとの事、ご用心を。
 当社の先代が昭和の初期に独立をした時に、三河の豊川稲荷(本社)に「願」を掛けた。以来、雨が降ろうがヤリが降ろうが戦争が起ころうが毎年正月に護摩を焚きに行った。50年の期限が終り10年のお礼参りが済んだ時点で赤坂の東京出張所に祈願場所を変え、ズルをしたら途端にバブルが弾け少し破片が飛んできた。アナ恐ろしきは神罰である。(つづく)

 

豊川稲荷東京別院
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/
 
 

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