東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の17

花 筏


〜木場歳時記〜

其の六 正月 元旦

 起床は午前7時、洗顔の後、和服に着替え庭に出て四方拝、神棚へ灯明・榊・お神酒・供物を捧げ切火の後、二礼二拍手一礼し「新年の賀を奏上」、合わせて、今年一年の願い事を言上。続いて台所の荒神様にも同様に祈願をして、座敷に戻りお仏壇に読経(正信喝)。終わるとジャスト8時、家族全員と犬一匹座卓の定位置に着き「年賀」を述べ、屠蘇の儀、一順の後、家長(いえのおさ)が今年の年頭教書と注意義務を語り、年齢に関係無く一人一人に「お年玉」を手渡す。そののち雑煮、…関東風で四角の切餅を金網で焼いて焦げ目を付け、具は小松菜で色を添え、ダシ汁を多少煮立て、鰹のケズリ節をパラパラ…。
 御節料理は、目も鮮やかな五段重ねの蒔絵の重箱に、この日の為に腕に縒りを掛けて用意した逸品が溢れんばかり。花鯛、車海老の塩焼、数の子、筋じ子、イクラ、真オクトパス、しんこ(鮗の子の酢づけ)、小鮒の甘露煮、暮に釣り陰干しをした江戸前の鯊を芯にした昆布巻、紅白のカマボコ、胡麻魚の田作り、黒豆、栗きんとん、慈姑(くわい)、レンコン、八つ頭、キンピラ牛蒡、厚焼玉子等、これらは時間を掛けた手作りが多い為、中身も濃く形も大柄でボリュームもあった。これが何時の頃か品数は同じながら、今日風のカラフル&バラエティに富んだ小作りで、何と「杉の折箱」に似せた発砲スチロール製で二段重ねの「オセチ・モドキ」と変化した。代金は5万円也。此れが安いか高いかは意見が分かれる所だが、確実に「正月」の味は薄くなった。
 その昔、と言っても30年チョイ前だが、「木場」が木場らしく誇りと見識が健全に保たれていた時代は、各問屋の主人は10時に始まる氏神(富岡八幡宮)の合同祈願祭に参列すべく正装して出かけて行った。氏子の参拝時間は各町内毎に決まっていて10時というのは、宮元に次いでのベスト・タイムで、以前は50名程の旦那衆がピタッと揃い、迫力も雰囲気も充分であったが、今も日時は同じなれど今年はたったの数名、材木屋の威勢かくの如し、時代とは言え何をか言わんやである。これは、大きく言えば材木屋ウンヌンよりも、「日本人」の「正月」との関わり方の問題で、日本文化の伝承の問題である。この町会も以前は80世帯でござったが、昨今は800世帯でこの有様となりはべったのである。
 2日目からは少々忙しくなり、昔は必ず午前7時に年始に来るお医者さんがいたが、代替りをしたので、現在は7時に墓参りに出発する。行先は相州・鎌倉だが道路が年々新調し拡幅され、羽田空港の真ん前を通り、鶴見つばさ橋を渡ると横浜ベイ・ブリッジと驚異的に速くなり混雑も解消し至って快適である。その反面正月は酔払いとスピードのトラブルは後を絶たず、その上に初詣での睡眠不足がこれに加わり、悲惨な事故の多発となる。
 小生の長男は脳外科の卵で毎日人様の頭にドリルで穴を開ける大工仕事を生業(なりわい)としているが、毎年どうしてこうも多くの人々が神様にお賽銭を上げに行って悲劇となるのか、と常々人間と創造主の責任の有り方に付いて憤慨をしている。とにかく、「アルコールが入っている人の身体の損傷は普通人の数倍の致命傷となる」そうなので、どちら様も「飲んだら乗るナ」を肝に銘じておいた方が宜しい様でござんす…。
 ところで、肝心の墓参りは、暮れに掃除に来ているので、献花し読経の後は直に帰宅。前は9時に自宅の座敷に出身者や現役の社員が全て揃い合同で年賀の挨拶をしていたが(社員はこれが済んでから帰郷)、丁度その頃に三河万歳や町内のお獅子の一団も来る。「三河万歳」は、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた時(慶長8年・1603年)故郷の農民がお祝いに駆け付け「万才狂言を奉じた」のがルーツとかで、以後はお江戸での門付け万才は三河の衆の独占事業となり、その鳥目(穴開き銭の穴が鳥の目玉に似ている)は百姓の正月の得難い現金収入となり、また農閑期の骨休みを兼ね格好の江戸見物ともなって、結構な一石二鳥のシステムでした。
 その伝統が幕府崩壊以後も久しく残り、戦後もかなり来ていたが、最近はトント見掛けなくなった。万才と言っても今流行の上方の漫才とはチト違って、どちらかと言えば、日本古来の「能」から発展した狂言の一種かと思われる。二人一組で烏帽子に裃付という特異な衣装で、一人は扇を持ち舞い踊り一人は鼓での囃子方で、その舞の文句(甚句)は「目出度いな〜」の文句で始まる謡いの言葉の羅列であったが、当家の主も番頭も三河の出身者が多いため殊のほか楽しみにして、その立寄りを心待ちにして居たものである。
 「獅子舞い」も良く来たが、この獅子も国際保護動物の朱鷺の部類となった。大振りでギョロ目で大口の里神楽の獅子と小振りで四角型の越後獅子とがあったが、ギョロ目の唐草模様の方が主に回ってきた。これは本職は少なく町内の若ぇ衆の小遣い稼ぎが多く、大体その中には見知った顔が入っていた。グロテスクな風貌のため子供が良く泣いたが、来なくなるとまた寂しいものである。思うに万才も獅子もかなり場所を取る芸のため、マンション等では不向きであり、又、世帯主の年齢が若返り、祝儀を出すという観念が希薄になったセイでは無いかと思うこともある。確かに祝儀の相場も渡すタイミングも判らねば無理もないが、これはもう教え度くも教え様が無くなった。世の流れの速さは如何んとも致し難く旧来の情緒は押し流されるばかりである。
 2日目も昼下がりともなると、100メートル先から妙に華やいだ空気が漂って来る。恒例の辰巳芸者ご一同の「お年始」である。勝丁字の勝太郎姐さんを先頭に駒菊・梅太郎・勝子・成太郎さん等が島田に結った髷の香もかぐわしくピーンと背筋を伸ばし一張羅の「出」の着物を柳に〆てのお出ましである。家長は笑顔で一人一人のお年頭を受け用意の引物に祝儀を添えて渡し、奥方は屠蘇を振る舞い、話が弾むも頃合いには引き上げて行く。一刻(とき)、伊東深水ワールドの世界が再現し得も言われぬ風情であったが、今は昔の物語。
 通常、世間一般では「芸者」という二文字が付くとあんまりイメージが良く無い様だが、これは大いなる偏見だと思う。芸者も上に超とか一流と付くとその趣(おもむき)は一変する。
 今は故人だが、最後の辰巳芸者、と万民?に認められて居たのが前述の勝太郎姐さん。三指をついての挨拶から始まり、立ち振る舞い気配りなど全てが違い、話題は多方面に亘り教養の深さは海よりも深く、並みの一等位の材木屋の親父殿では太刀打ちは叶わずチト無理でござった。客が大臣だろうがお猿(だれ)だろうが分け隔て無く接し、その芸風は格調が高く品が有り、以って他の模範となりはべり、「羽織(辰巳)」を肩の上に乗せ、東都に代表する存在であったが、残念ながら亡くなられて久しい。小生もガキの頃には何回かお会いしたが、今だに畏敬の念を覚える程である。どの世界にも素晴らしい人が居るものである。
 巷間、芸者のダンナはナンダカンダと言われるが、私は一流の芸者の条件の中には、「旦那を立てる」と言う一項が有るのでは無いかと思う。「功成り名を遂げた」明治の元勲の奥方は大半が「ウチの旦那」と生死を共にしているが、その前身は芸子である。名だたる元勲には名だたる芸者の存在があり、陰に陽にサポートをしている。この事は意地と生き甲斐なのである。
 今やその気っ風で鳴らした「辰巳芸者」も材木屋の盛衰と相俟って姿を消してしまい、モンジャやカラオケばかりがのさばり風情どころでは無い、段々と街が薄汚れてゆき、若者がその色に染まって行くのが肌で感じられる。我々には世代を受継ぎ後世に伝えて行かねばナラヌと言う義務と責任が有る。この儘では先人に申し開きも出来ぬ、材木屋の崩壊と同じく由々しき問題である。善悪はともかく「芸者と選挙の候補者には見返りを求めず」のNPOの精神が必要なのである。
 「フジヤマとゲイシャ」は日本を代表する標語として国際的に古くから認知されているが、その芸者がこのまま深川より消えてもよかんべか、このままでは山本一力先生の時代小説の中での風景だけになり兼ねない。佐渡の朱鷺と共に国際保護動物に認定されるか、世界に冠たるグリンピースに頼むか、南無八幡!に縋るかのどれかであろう。材木屋も気持ちダケは有るのだが、残念ながら○と力が丸で無い。現在、日本各地で起こっている「伝統文化」の断絶の一端であるが、伝統とは事程左様に一度キレルと再生は大変難しい。心ある方の「助っ人」を熱望する。(つづく)

 

神道三河万歳
出典:http://www.pref.aichi.jp/
 
 

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