東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の18

花 筏


〜木場歳時記〜

其の七 「福袋」

 小生は例年、年の始めの買物は「福袋」と決めている。其れもあの「現銀(金ニテハ否ズ)掛け値なし」の越後屋(三越本店)の「福袋」でねばなんねえ、のである。
 何故か? この「曰く」は当家の先代が独立した昭和の初期に遡るのだが、当時の風習としては何業に於いても「故郷(くに)から笈を背負い、…青雲の志を抱き…花のお江戸に出て成功する」即ち「故郷に錦を飾る」という事が生涯での最大の願望であった。その為に「朝は朝星、夜は夜星〜共に金星」で頑張り、その結果、運が良ければ目出度く独立となる。併しそれも晴れて世間に認められるには其れなりの「決まり」があった。
 先ずは故郷の村、学校、寺に其れ相当の寄進をする。そして「学校の演台の上に立ち」校長先生から「この御人はこの村の出身で〜遠く都に赴き艱難辛苦の末に成功なされ〜」と紹介され「晴れて」村中に認知される次第であり、今でも田舎の小学校に不釣合いなブラスバンドが一式とか、寄贈者の名前の方が異様にでかいドン帳がぶら吊っていたりするが、これ等が大旨その夢の名残りである。
 この時に村中に配ったのが、呉服に強い「越後屋」。即ち三越ブランドの名入り手拭と風呂敷、特に関東より東北はダントツの人気。これが戦後も継承していて東北地方への手土産品は、「赤と白の包装紙」〜昭和25年、猪熊玄一郎画〜正式名称【華ひらく】。これが一番喜ばれた。
 次がやはり紅白の「バラのマークの燗屋」であり、その空気が今も生きているのである。ブランドの伝統、伝承というものは恐ろしいものである。尤もこの紅白の包装紙のご利益も東北地方のエゾ地が主で西の方ではイマイチではある。
 因みに「三越」(三井家)のルーツは古く室町期に遡り、武家の名門である近江源氏の佐々木家の家臣にて、代々は城持ちの武士との事である。天正年間(1573〜92)に、主家の六角承禎が信長に攻められ滅亡、拠って、時の当主の「越後守高安」は伊勢に流浪。子供の高俊(タカトシ)が、武士をリタイアして松阪に居住、その次が初代の高利(タカトシ)である。
 三井家の正式文書「宗寿大居士行状」(宗寿とは高利の法名)によれば、以下の如し。自出、大職冠・藤原鎌足〜藤原北家〜御堂関白・藤原道長〜11世乗定に子が無く武家の佐々木満経(六角氏五代)の二男を養子に迎え三井備中守高久と名乗る。その五代目が「円光院殿越後守高安」、次の高利も「越後守」と越後守が二代続いたので、屋号を「越後屋」と定む、と言うのが伝承にて、本業は呉服と両替などの金融が主であった。
 よって「越後」の百姓を自認している落語家の林家こん平の一類では無いのである。発展の基は戦国の世が終わり平和の時代となった事にもよるが、高俊の奥方、即ち高利のお袋さんの殊法(しゅほう)、この人が偉かった。武士を失業しガックリきていた高俊に代わり、質屋、酒屋、味噌屋を切り盛りし特異の才能を発揮させ順調に発展させた功績は大きい。ならば高俊の貢献は何か、ズバリ!子作りである。今とは違い乱世の子育てはよほど大変だったと思うが、後々の一門の発展を考えると正解であった。結局子供は8人を授け、三越初代の高利は末子であったが、こちらも家訓を忠実に守り子供は15人を生ませた。
 かくして、転業は成功し多んまり儲かり、次に京都に支店を出し、また儲かったので、江戸表に出張って来たのが330年前の延宝元年(1673)、その後、明治に入り2度改名し、最終的に現在の名前、三井の越後屋=「(株)三越」と成ったのが、昭和3年(1928)。その長い歴史の中には様々な事柄が有ったと思うが、今まで存続出来た最大の要因は、常に時代の先取りをした事だと思う。
 又、あの有名な「家訓」が時代の流れをピッタリ指摘しており、「現銀掛値無シ〜代りに大安売りですよ」「大名貸しは御法度」当時の豪商は是れにて蓄財はするが、幕末で全てパァ。一番大きいのが勤皇か左幕かの正念場での時代の読み方である。三井は明治維新に際しては家の存亡を賭けて薩長につき全資金を官軍に用立て、維新革命の最大の影の功労者となるのである。
 長年続いた老舗はこの処を間違えて断絶が頻発する。その点、「越後屋」は流石である。大半の江戸の老舗はコテコテの徳川一本槍の為、資産は没収されて「国有財産」となり競売となり、その後の「新世界」では生きられずに競売から脱落し三菱等の新興勢力が台頭する一因ともなった。三井は住友、鴻池等と旧幕時代よりの数少い勝組であり誠に希有の例である。勿論、三野村、団、他の人材にも恵まれたが、近頃流行の政経分離のオーナー制の導入も効果を発揮した。これらは全て先見性、洞察力の問題でもある。
 ところで福袋であるが、今年も2日の8時頃に出かけ、整理券を貰う。この券が有ると昼頃迄に行けば一応「袋」にはあり付ける。
 風聞によるとブランド品が多く婦人物の時計やスカーフも有った様である。この中で膝掛けの如く毎年必ず入っている物もあるが、だいたい金高からしても、それほど変わった物が有る訳も無いのだが、ロールス・ロイスのシルバー・シャドーが別売りで大きな袋に入れられていた事が有った。もちろんバブルの頃の話である。
 しかし、商売として考えれば、これ程オイシイ商売も無い。正月の早よから1時間以上も大の大人を並ばせ言い値で中身も判らぬ袋を現ナマで買わせ、苦情も返品も受け付けぬ。こんな商売がこの世に存在していること自体が摩訶不思議。
 ちなみに「福袋」のルーツは何じゃいな。初めに考えた奴は大天才と思い、調べて見ると東京では、今から40年程前の昭和42年元旦から3日に掛け午前11時より池袋の「東武デパート」〈よい子の福袋〉1袋300円というのが初見である。
 三越の方は、それより5年後の昭和47年(1972)の正月4日に「新春初売出しお楽しみ福袋」1金、2千円也がスタートとの事。かれこれ、40年以上の歴史は有る事になる。
 尚、新宿「伊勢丹」も同じく47年、「燗屋」はこれより5年遅れの59年、この時には全てのデパートは参入しており、日本国中が昭和元禄の幕開けの様相であった。
 この様に東京の福袋の歴史はそれ程長くは無い。さすれば本来の発祥は何処かいなとなるが、思うに仙台の「茶箱」がルーツだと言う説がもっぱらである。しかし今度はその茶箱が判らない。三越の福袋も以前は中身もバラバラで当たりハズレが有ったので、発祥は各売場の年末の在庫の処分であったハズである。この方が思わぬ良い物が入っていたりして夢が有った。儲かった年とか成績の良かった売場とかのニュアンスが微妙に袋の中に反映をしていた。
 いつでも買える「福袋」、バーゲン・セールの「福袋」となれば、さぁ〜来年は誰が並びますかな。ひょっとしたらTVのコマーシャルの如くガチョウならぬカンコ鳥しか並ば無いカモ知れませんなぁ〜。
 その意味では「三越」も「材木屋」も変革の時代という次元では同じ渦の中ではなかろうか。グルグル回る「時代」という潮目を、どう抜け出すか「福袋」ならぬ「知恵袋」をとくと搾って考えて見よう。

 
 

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