東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の19

花 筏


〜木場歳時記〜

其の八 独立

 夢にまで見た独立、独立出来れば死んでもいい?とまで言われた戦前の独立。これは確かに1,000人に1人位だった様ですが、老舗の問屋の「正式な独立」とは如何なる仕儀で有ったかを少し検証してみますと、葉柄問屋では次の如き内規が厳然とござった。
 一、先ずは「10年以上修業をして主人の眼鏡に叶った者」。これが絶対条件であった。
 文字にするとたった是れだけだが、この意味は奥が深〜いので少々解説を致しますと、修業期間はあくまで目安であり、その上にお礼奉公が付くので実際は最低でも15年位。将来に亘り「一門の標紋(マーク)」を背負うので人品骨柄が良くて、商売の出来る者。その商売の出来る者とは、本、支店で何年かは支配人を務めた経験が有り、その間に「1度もミスを犯した事の無い者」「組合の10年表彰を受けたる者」とございやした。
 扨て、独立をさせる方としても、長年お店(たな)の為に粉骨砕身寝る間も惜しんで頑張った番頭の独立である。ケチケチして他店より後指を指され、笑われてはなんねぇのである。出来る丈の事はしなかなかんべ〜となって、次の事が本店の面子として与えられた。
 一、「案内状」が主人名で発送される。これは命より大事、これが独立の原点である。
 一、商標(マーク)に本店の通字を入れる事を許可される。これは「真っ当か、無許可の飛び出しか」の判断をする上で大変に貴重。
 一、3年間は何処から仕入れてもグー、全て本店が保証を致しやす。
 一、売り先も腕次第で本店の客は勿論、何処に売ろうがオールフリーで一切構いません。
 一、本店の在庫は1年間は何を売っても可、原価でよろしおます。口銭も頂きません?
 一、小僧は2名付けます。又、独立前の一年間は給料を本店持ちで修業をさせましょう。
 一、店舗、置場は適当な場所を借りるか買ってあげます。これは出世払いで結構です。
 他に主人は組合や銀行等にも、それなりに挨拶をしまして、ヨーイ、ドン!スタート。
 反対に「独立?とんでも無い、ノーグッド」と言われたとなると一転にわかに掻き曇りドシャ降りも極まり「この者は当社とは一切関係は御座らん」の案内状となりモー大変。独立どころか日本中どこに居ても材木では飯は食えず路頭に迷う事にもなり兼ねません。従って「店が火事でも本店の使いが来れば、飛んで行く」と言う話はまんざら冗談では無く、実際に有ったと聞いておりやす。本店とはこの様に全てに重かったのでござんす。
 当社も戦前と戦後の20年代迄の独立は大体この通りでしたが、以後は問屋としての独立は無理となり独立しても全て小売屋、それもセオリー通りにはとっても参らず100%本人の自助努力となり申し訳なき次第、これも時代の然らしむ処にて残念至極。尤もお客や荷主の子弟の預かりが多くなり、子飼いが減った事の影響も有りましたがね。

 

 江戸期の木場問屋は番頭の独立を一切認めず、どんな功績が有ろうが優秀であろうが、「一生飼殺し」でした。これを功績によって認めたのが、久次米(阿波・徳島の藍問屋、今の総合商社の様でして徳島銀行の元でもあります)の木材部の支配人の武市森太郎氏。
 此のため武市系は爆発的に発展をして、氏は近世の木場のルーツとなり一時期は木場の材木問屋の大半が武市森太郎氏と子や孫のような位置付けで有ったとも言われ、これが「木場で石を投げると徳島県人に当たる」と言われた所以でもあります。

 

 正月元旦、大問屋△△家の奥座敷に、大番頭、中番頭、小番頭、小僧、使用人の一同、全てが揃った所で、主人より「今年は○○ドンにお願い致します」と挨拶が有り、有金、大福帳(売掛・買掛)、在庫帳を渡され、是れにて商権の一切は○○ドンに委譲されて、○○ドンは全知全能を傾注し1年間頑張り、そして大晦日に預かった3点セットと他に「儲け」の現金を合わせて、主人の前に差し出して報告、主人はそれを静かに聞いて、納得がいけば「ご苦労でした、来年もお願い致します」と申して、儲けの半分を自分の懐に入れ、残り半分は「皆様でお別け下さい」と言って席を立つ。と言うのが本来のスタイルで有った様です。
 若し、その時に儲けがペケだったとしても一切文句は言わずに「来年は◎◎ドンにお願いします」、で○○ドンはクビ、以後フリ〜となるがタイヘン。お陰でこの年は全員賞与はナシ。従って支配人の善し悪しは小僧の端まで影響が大なり。
 昔はオーナーと使用人とはハッキリしていて、オーナーは資金を出すだけで商売には余程のことが無い限りは、一切口は出さず任せていた様ですが、荷主や得意先の接待は主人の仕事でありました。当時の決済は遠隔地の荷主とは「盆・暮れ勘定」でしたので、普段は概算金を払って置くだけなので、実際の精算をする為に年に2回、上京して来る、荷主の大半は番頭を連れて来るので、このかなりの日数が掛かる計算は番頭の仕事となり、オヤジは市場調査、即ち物見遊山の方が主体となる。逗留は10日前後が標準だが長いと半月にも及ぶ時も有った様で、その為にどこの問屋でも旅館と見まごうばかりの設備は完備していたとの事である。
 確かに江戸期の浮世絵や戦前のモノトーンの写真を見るとその当時の雰囲気は伝わって来る。一緒に辰巳芸者の三味線の音まで聞こえて来るほどで、その案内が問屋の主人や若旦那の重要な役目で「大店(おおだな)は3代続か無い」と言われる所以なのである。当時の風習で問屋の3代目は材木屋に限らず、生まれた時からオンバヒガサ(御乳母、日傘)で大事に大事に育てられ、成人しても大、中、小と番頭が居り、とても若旦那には材木を担ぐ順番は回って来ないのである。やむなくチントンシャンの練習に励む事となり、これが「木場は粋人が多いが3代は続かない」となるのである。従って、3代以上続いているお店は木場問屋としてはセオリーを逸脱した異端なのである。
 この様な訳なので材木屋の正統派の皆さんは大いに頑張って「〜唐様で書く3代目」を目指して頂きたい、〜無理をしなくてもやがてそうなる、と言う意見は置いといて〜、さすればその名は木場の歴史に永遠に残ること請合です。以上で理由付けは出来ました。今後は心置き無くバカをやって日本の文化の再興に協力して下さい。差し当たり検番の復活からどうでしょう。御礼として銅像位は喜んで建てさせて頂きますが…。

 

 トンだ処で本音が出て寄り道を致しましたが、独立の真の目的は次の様でござんした。
 一、本組合の役員に列する事。これで初めて故郷に錦を飾れて、先祖の墓参りが出来る。
 二、日本橋「越後屋本店」((株)三越)の帳場でツケが効き、女中を連れて買物が出来る。
 これもオイソレとはいかなかった様で、念願が叶った時にはお祝いをした程ですと、この為に365日夫婦してシャカリキ(釈迦力)で働いた訳である。当家の先代も正にこの口で、それ迄の苦労や独立した時の気持は飽かずに聴かされたものであった。
 それがどうでぃ、昨今は「三越カードどうです、ドウデス!」と無理矢理、入らされる時代である。ささやかな庶民の目的も生甲斐も時代の波間に飲み込まれてしまい、変に頭デッカチな欲望のみが漂っているが、果たしてこれで良いのだろうか。どうもどこか違う気がする。尤も「東京生まれの東京育ち」では「カルメン故郷に帰る」と言う訳には行きませんが、だいたい故郷(くに)てぇもんが無ぇ〜んだから、奥歯も磨り減りようが有りませんわなぁ〜。

 

 戦後は雨後の竹の子の如く我も我もと独立し、又、出来たのは棚ボタであったのだが、今はその竹の子の育った土壌が崩壊して、木の判る本物の「材木屋」が消滅しつつある。これで良いのかご一同。1400年の日本の「木の文化」が、カタカナ・横文字の為に消滅寸前なのである。
 日本人ならば少しは考えてもらわねば遺憾、イカンのではないか。こんな事ならマトモなヤマトンチューなら全員判っているハズである。いい大人が判っていても乗り越えられない壁を多分「バカの壁」と言うのだろう。いまバカをやっていると日本が将来失う物はデカイぞよ。朱鷺は中国に同種が居たが、日本文化は自分達の手で創造し守っていかねば無理だんべー、生活を快適にする文明は確かに素晴らしい。
 併し、文明に文化が飲み込まれては本末転倒で、とても文化国家とは言えなかろうが、金儲け専門では何時の日にかJokerを掴み、国も国民も滅びる事になる。欲張る事なかれ、文明と文化は一心同体、それでこそ共に輝くのですぞ、ご同役。

 

 
 

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