東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.166

明けましてお目出度うございます
本年もよろしくお願いいたします
平成26年 元旦 青木行雄

平成11年4月8日の新木場の風景No.2
びっしり原木が浮いている。

〜歴史探訪 一人旅〜
「伊勢神宮」(お伊勢参り)
第62回 神宮式年遷宮 10月20日に参拝
「平成25年10月3日(内宮)10月5日(外宮)」
青木行雄
※外宮の入口の鳥居、どしゃぶりの雨の中人並が続いていた。
※外宮の入口、この看板が立っていた。
※特別参拝の証。外宮と内宮共通券でどちらの宮でもお受けすることが出来る。
※外宮の新しい塀、雨に濡れて黄金色に光っていた。
※外宮の旧塀、20年経った重みが滲んでいる。新旧の差が目立っている。
※「清盛楠」はっきり別れているようだが1本の楠の木である。
※「宇治橋」。この橋を渡ると聖域に入ることになる。
※「宇治橋」の下の五十鈴川は雨で荒れている。普段の川と様変り、音を立てて流れていた。
※ 内宮の鳥居の入口。玉砂利は雨で歩きにくい。
※内宮の階段の降り口。大木に囲まれた雨の中の昼間も暗い。
※新しく出来上った「内宮」の新殿。遷宮前の写真、地元紙より。
※「内宮」を空から見た景観。大森林の中に囲まれた神殿。平成5年第61回式年遷宮の時の空中写真、地元紙より。
 

 どしゃぶりの雨の中、「外宮」の正面に到着した。赤信号がなかなか変らない。布の傘では水が滴る程の雨足であった。水たまりが出来ている砂利道を歩く、靴はびしょびしょで水浸しになった。案内人に連れられて、「衛士表見張所」を通り小さな火除橋を渡り、左側の「手水舎」で手と口をゆすぎ一ノ鳥居をくぐる。少々歩いて右に曲って二ノ鳥居をくぐると、「神楽殿」の横に受付所があった。特別神域に入る手続きをして、「豊受大神宮正宮」の正面に向う。手前に旧神殿があって並びに新宮殿桧材が雨に濡れて金色に光っていた。旧殿は門が閉っており、並びの塀が新旧はっきりわかる。
 新宮殿の正面入口の左側に正式参拝受付がある。ここで名前の登録をして、特別神域に入る。傘を下において軒下に整列する。神宮が重ね合わせた素焼きの小皿からお清めの塩をピッピッと振り掛ける。終わると小石を敷き詰めた神域に遠廻りして案内された。正面で2礼2拍手1礼で正式参拝は終ったが、今回は旧殿の見学が出来ると言う。早速お願いして新殿の横から裏に廻り、旧殿の裏の入口から入った。神様と神物は移動されているので、空き家の神殿だが、20年間神がやどって雨嵐に耐えた旧殿はそれなりに重みが有り、見方にもよるが、私はなんとも表現のしようがない程感動した。もちろん所々に警備員が居て撮影は残念ながら出来なかった。参道に出て入口に向うが、手水舎が左側にあるため内宮の神域内はすべて左側通行となっている。入口近くの斎館の横に楠の大木が見える。内部が腐っていた事もあったらしいが、落雷でさけて2本の木に見えるが1株の楠と言う。樹高10メートル、直径3メートル余りあり、「平清盛」が勅使として参向したとき、冠にさわった西側の枝を切らせたという伝説があり「清盛楠」と言うそうだ。樹齢約千年と言う。この楠の木にお別れして、「内宮」に向う。

 神宮について
 伊勢の神宮は、「お伊勢さま」「大神宮さま」「伊勢神宮」などいろいろと呼ばれているが、正しくはただ「神宮」というのが正式の称号らしい。
 神宮とは、伊勢の五十鈴川の川上にご鎮座の「皇大神宮」(内宮)と、伊勢の山田が原にご鎮座の「豊受大神宮」(外宮)との2宮を中心としている。この両大神宮を「ご正宮」または「ご本宮」というそうだが、この二所のご正宮には、14の別室、109を数える摂社、末社、所管社が所属している。これらの宮社全て含めて「神宮」というらしい。
 神宮参拝は、順路として「外宮」からされるのが正式とされていると聞いたので、我々も外宮から始めた。
 外宮から、内宮まで5キロ程あると言うのでタクシーを利用したが、運転手に景気はいかがですかと尋ねると、この「遷宮」で今までの2〜3倍は忙しく、食事する暇もないとの返事が返って来た。土・日・祭日は1日7〜8万人の参拝者が来ると言う。この雨の中でも行列が絶えない。
 五十鈴川に架かる「宇治橋」は俗界と聖界との境の橋と言う。身も心も正して清浄な宮域に入る心構えが、昔から大切なこととされていた。あの木造の橋の下は清らかな清流でそんな気もするが、今日は大雨に見舞われ、けた下まで濁流が音をたてて流れており荒れ狂っていた。
 橋の両鳥居をくぐり、神域に入る。外宮と違い内宮は参道が長く一ノ鳥居までかなりの時間がかかる。水たまりの砂利道を少々歩いた。
 「火除橋」を渡り右側に「手水舎」がある。手を清め一ノ鳥居をくぐる。その先に御手洗場の川場があるが今日は大水でロープがはられていた。左に廻って二ノ鳥居をくぐり神楽殿があった。外宮・内宮共通券であったのでそのまま内宮の正面まで歩く。正面の石段を30段程のぼると塀の中に入るが外宮と同じく左側に特別神域に入る登録をして中へ入る。神宮より手塩の清めを受けていよいよ内宮の正式参拝となった。内宮の旧殿の方は見ることは出来なかった。神殿の中の敷地は内宮・外宮もほぼ同じでそれぞれ新旧合せて4,200坪あると言う。すごい広さである。
 平成26年3月頃までに正式参拝すれば、外宮の旧殿は見ることが出来ると言う。歴史のあるこの「伊勢神宮」の神様が20年間在殿された外宮だけではあるが、この目で拝見することが出来る。20年間で2度とないチャンスだ。出来れば、見ておこう。
 伊勢神宮には、日本と日本人が忘れてはならない心の原点がある。日本人ならどんな宗教を信じていても一度は行って見たいと言う心境はあるのではないか。

 伊勢神宮の歴史について少々記してみたい。

 遥か昔、大和の国が日本の中心だった古代にあっては、太陽の昇る地、それが伊勢の国であったと言う。
 ─この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり、傍国の可怜国なり
  この国に居らむとおもう。─
  (伊勢の国は、理想郷からの波が打ち寄せる豊かな地であるから、そこにいたいのだ)
『日本書紀』


 大和から東へ、峠をいくつも越えると、のびやかな緑の大地が広がる。ゆっくり流れる川、その先に広がる大海原。四方を山に囲まれた大和の人々にとって伊勢の海は、豊穣と永遠のシンボルとしてまばゆく映ったに違いない。そんな憧れの地、伊勢に、日本人の祖先につながる、太陽神、「天照大神」は祀られたのである。
 伊勢神宮の鎮座については、大和王権の東国平定への拠点作りなど諸説があると言う。なかでも「倭姫命」が「天照大神」を祀る。聖地を求めて、近畿地方を巡ったという伝承が数多く残っているようである。
 「倭姫命」は神武天皇から数えて第11代の垂仁天皇の娘。
 『日本書紀』や『古事記』には甥の(倭健命、日本武尊)が東国平定に出かける際、三種の神器の1つである「草薙剣」を授けるという場面で登場する。
 聖地を求めて大和からまず北上し、伊賀、近江、美濃、尾張を巡りそして南下して伊勢へ、「倭姫命」の旅は各地で数年ずつ「天照大神」を祀りながらゆっくりと進む。姫が巡った地のほとんどは、のどかな田園地帯に鎮守の森が茂るどこか懐かしい風景が広がっていた。そして地名や神社の由緒には「倭姫命」の足跡がしっかり残されていると言う。余程の影響力だったようである。「倭姫命」の旅については、大和の王権が保持していた稲作技術を各地に授けながら、その力を広めていった側面もあったと思われる。
 そして「倭姫命」は「天照大神」がふさわしいと選んだ伊勢の地に大神を祀ったのである。

 天照大神が「常世の波の寄せる国」といわれたように、伊勢志摩地方の海岸は東に開け、理想郷である常世があるとされた海の彼方から波が打ち寄せる。なかでも伊勢・二見浦は古くから禊の浜として神聖視され、「清渚」と呼ばれてきたと言う。神道で身の穢れを祓うことは、目に見えない魂の穢れを祓うこと。神前で祈りを捧げるにはまず心身の清浄が必要なのである。
 二見浦は伊勢神宮の内宮を流れ出る「五十鈴川」の河口にあたり、「倭姫命」があまりに美しい景色を名残惜しいと、二度も返り見られたためにその名がついたといわれている。弧を描く白砂青松の浜、夫婦のように二つの岩が並ぶ「夫婦岩」は、実は沖合いに沈む興玉神石の「岩の鳥居」の役目をしている。神おわします浜辺は美しい。
 伊勢には「浜参宮」という慣習がある。この20年に一度の神様のお引っ越し、式年遷宮に向けて社殿の造営用の御木を曳く伝統行事「御木曳」に奉仕する人々が二見浦に詣で、身を清める慣わしである。大事な行事を前にした伊勢の人々が潮を浴びて穢れを祓い、神様にご奉仕するのである。

 一年のうちで最も昼間が長い6月の夏至、二見浦の夫婦岩は初日の出の遥拝所として知られているが、二つの岩の間から太陽が昇るのは正月ではなく、夏至の頃であることを知る人は少ない。
 ゆっくりと、まるで海から生まれ出るように夏至の太陽は昇るという。
 力強く輝く太陽は、空を海を金色に染めて・・・。水平線の彼方からは、金色の波が後から後から打ち寄せる。これこそが「常世からの波」か、「天照大神」が伊勢にお鎮まりになったのはこの神々しい光景があったからこそ、と思わせるほどだという。太陽神の「天照大神」は、また「海照らす」神ともいえるのだ。
 伊勢では不思議と夏至に日の朝は雨が降らないという。これも太陽神が選んだ土地だかも知れない。私はまだこの日には行っていないが、是非見たいと思っている。

 式年遷宮について
 伊勢の神宮では、20年に一度、正殿以下御垣内の諸殿舎をすべて新しく造り替え、正殿の御装束神宝の一切を新しく調進して、新しい正殿のご神座に、大御神にお遷りを願うという。神宮の祭典の中で最も重要な祭典である。20年に一度という定まった年に行われるので、これを「式年遷宮」という。式年とは、「定まった年」という意味である。臨時に行われる臨時遷宮や仮殿遷宮に対して正遷宮とも言うらしい。
 今から1300年前、第40代天武天皇が、この式年遷宮の制度を考えられた。平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、この尊い伝統が固く守られ、諸際行事が前例に準じて斎行されてきたのである。
 伊勢神宮や、この遷宮については、ニュースや新聞雑誌などで目にすることが大変多かったと思う。又一度は行った事がある人も多いと思う。あの内宮の「宇治橋」を渡りつつ、五十鈴川を眺めながら、鳥居をくぐり、玉砂利を踏むと、伊勢の神域に入ったと言う実感がわいて来る。そして何回行ってもいつも神聖な気持ちになる。不思議である。

※歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いできた「3つの宝物」『三種の神器』

一、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)
一、「八咫鏡」(やたのかがみ)
一、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)

※「草薙剣」→「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき尾の中から得た剣。

 伊勢神宮は日本人の心の原点といえるであろう。

 
昭和四年度御遷宮絵巻「遷御」〈高取稚成画〉

平成25年11月24日 記


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