東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.170

〜歴史探訪 一人旅〜
軍師・黒田官兵衛と
中津城(大分県)

青木行雄
※黒田如水の画像。家督を嫡子長政に譲り、文禄2年頃「如水(じょすい)」と号す。如水と命名した頃の画像と思われる。
※堀の海水を引いた中津城は日本の三大水城と言われ、官兵衛の築城による。現在の天守閣は昭和39年に建築された、コンクリートの城である。
※1587年(天正15年)42歳の時、豊前6郡を拝領した。入国し領内の検地を始めたが、その時の地図。福岡県と大分県の県堺にまたがる一帯である。

 激動の戦国の世、天下統一に突き進む豊臣秀吉を軍事参謀として支えた黒田官兵衛。
 秀吉の九州平定後、豊前6郡12万石の領主となった官兵衛は、検地、中津城の築城、城下町の造営に着手し、中津のまちの礎を築いた。また、関ヶ原の戦いの際には、天下取りの夢を持って豊前国中津の地で挙兵、九州の大名を次々に制圧したが、あと一歩のところで、官兵衛の天下取りの夢は終結する。
 平成26年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送が始まって、毎週日曜日が待遠しい人も多いと思う。
 戦国の世を知略を武器に生き抜いた天才軍師黒田官兵衛の生涯を追ってみた。
 1546年(天文15年) 官兵衛は姫路城主黒田職隆もとたかの嫡男として、兵庫県西脇市黒田庄町の黒田城跡が生誕地であるらしい。(姫路城と言われているが)
 1567年(永禄10年) 22歳の時家督を継いで姫路城主となって、志方城主櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘、(てる)と結婚、翌年に嫡男、松寿丸(しょうじゅまる)(のちの長政)が生まれた。
 1575年(天正3年) 東の織田信長と西の毛利輝元の両勢力に挟まれた播磨の諸将の中、官兵衛は、主君小寺政職(こてらまさもと)に織田につくよう説得、自ら使者となって岐阜城の信長に謁見した。こうして秀吉の配下に入り、軍事参謀として活躍が始まる。
 1577年(天正5年) 官兵衛は、中国地方討伐の司令官として播磨入りした秀吉に姫路城を差し出し、播磨の国人領主が織田につくよう交渉に奔走する。しかし、翌年、有岡城の荒木村重(むらしげ)が反旗を翻したため、官兵衛は、説得に単身城へ乗り込むも幽閉、1年もの土牢暮らしで、膝が不自由になり髪も抜け落ちてしまう。
 1582年(天正10年) 備中高松城の水攻めの最中、信長が明智光秀に討たれたとの知らせが入る。これを聞き、泣き崩れる秀吉に官兵衛は「信長様の仇を討てば天下が秀吉様に回ってきましょう」と天下取りを進言したという。その後、秀吉軍は1週間で京都までの200qを移動、世にいう「中国大返し」である。そして、一気に明智軍を粉砕する。(山崎の戦)この官兵衛の天下取りの進言で、秀吉は官兵衛を頼もしく思う反面、以後、警戒心を抱くようになったと言われている。
 1586年(天正14年) 官兵衛は、秀吉の九州攻め先遣隊の軍師として諸大名の勧降工作に当たる。秀吉軍本体の九州入り前に、かなりの大名を秀吉側に引き入れるなど、大きく貢献し、翌年1587年、その功績により豊前6郡12万石の領主となった。
 その豊前6郡とは、今の福岡県東部の京都、仲津、築城、上毛と大分県北部の中津、下毛、宇佐の6郡である。
 そして、1588年(天正16年)に中津城を築城したのである。
 1587年(天正15年)豊前6郡の領主となった官兵衛は、入国すると直ちに3ヶ条の掟書きを発し、主従関係の確保、治安維持、年貢米(税)、土地支配の姿勢、という領国経営の基礎方針を簡潔に領民にわかりやすく打ち出した。
 一、主人、親、夫に背くものは罪として罰せよ。
 一、殺人、盗み、強盗をしたもの、それを企てたものはその罪として罰せよ。
 一、隠田、畝ちがえ(田畑を隠す、広さを隠す)などをしたものも同前である。

 

農民の税負担を減らす申告制の検地を実施
 官兵衛が行った検地は、検地奉行の派遣による正確な実測を行うものではなく、指出と呼ばれる申告による検地であった。当然申告は実際より少なくなるが、官兵衛は、見栄を張らず石高を低く抑え、農民の税負担を軽減した。

 

※中津城の町並であるが、官兵衛が入府したときに出来た町、姫路町、京町が今でも存在している。

頻発した豊前での一揆
 宇都宮一族は、1185年(文治元年)に初代信房が源頼朝から豊前国を拝領して以来、弟や子をその谷々に置き、400年にわたって支配し続け勢力を大きくしてきた。しかし、1587年(天正15年)秀吉による九州平定の論功行賞として豊前6郡は官兵衛に与えられ、宇都宮一族の本家宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)は、城井谷(きいだに)(現築上町)から伊予への転封を秀吉に命じられた。
 これを受け入れられない鎮房を中心に、検地に反対する豊前の国人が一揆を起こす。これに対して、官兵衛は、毛利軍の手助けを受け徹底して一揆を鎮圧した。幾度もの合戦が行われ、いくつもの城が落城した。なかでも、長岩城(ながいわじょう)(耶馬渓町河原口)の城主野仲鎮兼(のなかしげかね)は、一族最大級の兵力をもって激しい攻防を繰り広げたが、黒田軍の前に敗れている。実は私の田舎は耶馬渓町であり、生き残りの住民と言うことになりそうである。
 最後に当主宇都宮鎮房は降伏するも、中津城内で討たれ、ついに宇都宮一族は滅んだのである。
 官兵衛は、豊前入国当初、馬ヶ岳(うまがたけ)城(現行橋市)を居城としたが、山城では城下町づくりが出来ないため、平地に移すことを考え、1588年(天正16年)から中津城の築城を開始した。中津は、豊前国のほぼ中央に位置し、周防灘に流れ込む高瀬川(現中津川)に面しており、川を自然の堀として使えるうえ、水陸交通の要地である。
 また、広い平野でこの地方有数の米どころでもあり、海運と商工業を押さえるには、最高の場所であった。
 官兵衛が中津城の築城を始めた後、城下町はつくられていくが、現在の旧中津城下町にも、町割りや町名など黒田時代に由来するものが多く存在している。官兵衛が、姫路から一緒に連れてきた商人たちの町「姫路町」や京都・博多の商人らが移住してきたといわれる「京町」「博多町」は現在も残っている。
 1589年(天正17年) 官兵衛は44歳で突然、家督を息子長政に譲る。これには、宇都宮鎮房の謀殺を一つの契機として自ら身を引くことを考えた、とする説と「わしの死後に天下を獲るのは官兵衛」という秀吉の話を聞いた官兵衛が、秀吉の警戒心を解くために隠居した、との説があるようだ。
 しかし、隠居後も秀吉の参謀としての役割は続いた。
 1590年(天正18年) 官兵衛は秀吉に従い、小田原城へ進出する。秀吉軍は小田原城を兵糧攻めにするとともに、支城を次々に落としていった。
 最後に、抗戦を続ける北条氏を説得するため、官兵衛は酒2樽、粕漬魚、10尾を贈る。そして自ら肩衣袴(かたきぬばかま)の姿で刀を持たずに小田原城に入り、北条氏政・氏直父子と対面し、無血開城を導くのである。
 氏政・氏直からは、仲介のお礼として「日光一文字」の太刀と「吾妻鏡」が官兵衛に贈られたと言う。
 1592年(文禄元年)と翌年の二度にわたり官兵衛は、秀吉の使者として朝鮮に渡海し、軍策などに関わる。しかし、無断帰国が秀吉の怒りを買い、蟄居(ちっきょ)(謹慎)を命じられた。これにより官兵衛は剃髪出家し、「如水」と号した。その後、明とは自然休戦となっていたが、1597年(慶長2年)から第2次出兵(慶長の役)が始まると、官兵衛は、総大将小早川秀秋の軍監として再々度渡海したのである。
 上方の情報がいち早く届くように、官兵衛は、瀬戸内海の数か所に早船を置いて連絡を密にしていた。石田三成の挙兵情報も豊前国の中津城で知ったのは僅か3日後だったといわれる。
 1600年関ヶ原の戦いを機に、官兵衛は、天下を2分される今こそ、九州を平らげ、その勢いで中国を平定して軍勢をまとめ、東上して勝者と決すれば、天下を手にする機会が回ってくるかもしれないと考え、兵を挙げた。
 しかし黒田家の将兵5400人はすでに息子長政が率いて、家康側の東軍に属し出陣していたため、官兵衛は、城の蔵を開け放ち、蓄財していた金銀を大放出し、浪人から百姓まで瞬く間に9000人を集め出陣した。
 戦績は全戦全勝で、石垣原の戦い(現別府市)で大友軍を破り、その後も豊後→香春岳城→小倉城→久留米城→立花城と西軍側の大名を次々に制圧して行き水俣まで進出する。
 しかし、九州制覇まであと一歩のところで家康からの終戦命令が入り、官兵衛の天下取りの夢は終結した。

 官兵衛は、天下の覇権をめぐって戦国時代最後の大一番となった関ヶ原の戦いが、1日で終わってしまったことは誰も予想できなかったことであり、それが息子の長政らの活躍によるところが大きかったという皮肉な結果となった。
 また、関ヶ原の戦いの後、息子の長政が「徳川家康から何度も手を握られ感謝された」と自慢げに報告すると、「その時お前の空いた方の手は何をしていたのか」と、家康を刺さなかったことを叱責したという。官兵衛の野心家ぶりを示した話は、中央から遠く離れた九州中津の地から、天下を見据えていた逸話として伝えられている。

 軍師官兵衛の奇抜な戦術は「大河ドラマ」の中でも見られ大変興味のあるところだが、何点かあげてみる。

 

鳥取城の兵糧攻め
 開戦前に因幡(いなば)国中の米を通常の倍の価格で買い占めたうえ、鳥取城付近の村を襲って領民を城へ逃げ込ませ、兵糧の減少に拍車をかけて短期決着に結び付けた。

 

備中高松城の水攻め
 全長3km・高さ7m・幅20mの堤防を築き、大船30隻に石を積んで沈め、さらに近隣の民家を壊し川をせき止め、水を引き入れると、城下は水没し堅固な城は孤立した。

※合元寺(通称・赤壁寺)宇都宮鎮房の従臣達が待機されていたと言うこの寺で従臣達は皆殺しにされた。当時の刀傷が残っている。
※中津市が製作した「クロカン君」と「軍師・官兵衛」東京に出張して会場を盛り上げた。

 

中国大返し
 明智軍撃退のため京に上る際、毛利軍に借りた旗を掲げ進軍、毛利軍も秀吉に味方しているように思わせ、相手の士気をくじいた。

 こうして知略により人を殺さずに話し合いでの決着を図ってきた官兵衛だが、宇都宮鎮房の謀殺事件では、かなりむごい仕打ちをしている。
 この時期、肥後一揆を封じ込められなかった佐々成政(さっさなりまさ)が、秀吉に切腹させられており、一揆の徹底鎮圧は、秀吉の指示でもあったと思われる。
 戦国時代とは言え、宇都宮鎮房の謀殺事件は、400年以上もたった今でも官兵衛の汚点として、憎む縁者がいるのはかなしい。

 天下の夢を見た官兵衛は中津にいろいろな史跡がある。今年、2014年は観光都市中津市に力が入る。
 その1つ「中津城」
 官兵衛は、高瀬川(現中津川〜山国川)の河口を巧みに利用し、1588年(天正16年)に築城を始めた。堀に海水を引いた中津城は、日本三大水城のひとつに数えられている。海面の下に槍状の石を敷き詰め人間が海から城に近づけないように工夫してあると言う話も聞いた事がある。
 その2は「合元寺」通称、「赤壁寺」
 1587年(天正15年)に官兵衛に従い中津に来た空誉上人の開山。
 黒田氏は中津城内で宇都宮鎮房を討ち、この合元寺で待機していた従臣たちを殺した。その時の血が何度塗り替えても染み出してくることから、遂に壁を赤色に塗るようになったと言われている。寺の庫裏の柱には当時の刀傷が残っている。
 他にゆかりの史跡はかなりあるが省略する。

 中津市も観光に力を入れて、市の職員に「軍師・官兵衛」の軍服やキャラクターの「クロカン君」を用意して出張させている。

 大河ドラマでは中津城との関わりは今年の後半になると思う。これを機会にあまり知られていなかったと思われる「軍師・官兵衛」と「中津市」の名が知られ、観光に役立てられることを期待したい。

「黒田如水縄張図」
17世紀作とされる絵図の中心部分。
京町・博多町など今も残る地名が確認でき、
黒田期を知る手がかりとして貴重です。
(中津市歴史民俗資料館所蔵)
出所: http://www.city-nakatsu.jp/

平成26年3月30日 記


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