東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.171

〜歴史探訪 一人旅〜
皇居「坂下門」から「乾門」へ
(皇居の桜一般公開)
青木行雄
※再開発された東京駅丸の内南口。当日早朝の写真で、郵便局新庁舎側から写した。
※「DJポリス」による誘導。褒めながら高所より誘導する。
※重橋前付近から坂下門に向う人の行列。
 東京駅前付近の高層ビル群。この人とビルを眺めながら、東京と言う所はすごい所だと改めて感心する。
※奥の白いテントが検問所。ここで30分程待って進む。
※やっと坂下門に到着した。ここまで来ると疲れを忘れる。
※皇居にこんな桜が何本か目に映る。整備された公園に見事な桜、江戸城の石垣にはえる桜、すばらしい。

 東京駅丸の内側に降りたら、皇居の方面に向う人が目立っていた。その行列について行くと坂下門の方向である。坂下門が見える所まで来たら、行列は左に向い日比谷公園の手前まで来て皇居からの出口前で右に廻り桜田門の方向へ向う。桜田門の手前を右に廻り「二重橋」の前を通り「坂下門」に向った。ここで20分程待たされてテントの下で荷物のチェック。終って進むとボディチェック。2箇所の検問所があり「坂下門」の門前まで、東京駅から約1時間30分かかった。途中、警察の誘導があってお巡りさんの人数もかなり大勢である。
 乾通りは坂下門から乾門までの約750mで沿道に桜が76本あると言う。松や紅葉などが植えられており、大変美しく興味のある場所であった。沿道は人が多く混雑した電車の中にいるような雰囲気だったが、この時期初めて見る皇居の中の桜は格別な気分であった。
 特に東御苑からよく見られる。松の廊下跡の先に「富士見多聞」と言う細長い建物があるがこの建物を今回裏側から見る事が出来て感動だった。普段見ることの出来ない「蓮池濠」の向こうにかなり高い石垣の上に長い「富士見多聞」を見た。
 坂下門を入るとすぐに「宮内庁庁舎」があって普段は見られない建物である。又「富士見櫓」も宮殿側から見るのも初めてですばらしい。昔はこんな櫓だけでも30以上あったらしいが、今は二重橋から見える伏見櫓、大手門近くの二重櫓とこの富士見櫓の3棟である。
 皇居を大別すると陛下が住まわれている西御苑すなわち吹上御苑の宮殿内と東御苑、旧北の丸御苑の3ヶ所に別れる。
 この旧北の丸は1964年(昭和39年)東京オリンピックの時、競技場として日本武道館を建設し、自由に出入り出来る場所となった。
 東御苑すなわち、旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸跡の一部を皇居附属庭園として整備した。1968年(昭和43年)10月から行事に支障がない限り一般公開している。最初は経歴などを書かせ全員にナンバーカードを渡しチェックしていたが、今は入場者の人数のみ数え、誰でも時間内に入れるようになった。休園日は原則として月曜日と金曜日だが祝日は開園しており、午前9時から午後4時まで入園出来る。東御苑の入出場門は、大手門・平川門・北桔橋門の3ヶ所である。

 

 改めて「皇居」について、簡単に記してみる。
 徳川幕府の将軍の居城であった江戸城は、明治元年に皇居となり「東京城」と改称された。翌2年明治天皇が東京にお移りになり、「皇城」と称された。明治6年西の丸御殿が全焼し赤坂離宮を仮皇居と定められたが、明治宮殿が完成した明治21年10月から「宮殿」という呼称が長く使用された。昭和23年7月から「皇居」と称されることとなったと言う。
 現在、皇居内には、天皇皇后両陛下のお住まいである御所をはじめ、宮殿、宮内庁庁舎等の建物がある。その面積は115万平方メートル(約34万坪)で日比谷公園の約7.3倍程あると言う。
 皇居の東側地区(旧江戸城本丸、二の丸、三の丸の一部)は「皇居東御苑」として昭和43年から一般に公開され、その一画の「三の丸尚蔵館」では展覧会が催されている。そしてこの「東御苑」の奥に天守閣の台座がある。
 この「天守台」について少しふれてみる。旧江戸城の天守閣は、三度建て替えられた。最初は慶長期の天守閣で、1607年(慶長12年)に徳川家康によって建てられたもので、中央部の富士見多聞寄りにあったといわれる。2代目は元和期の天守閣で、1622年(元和8年)に2代目将軍秀忠により現在の天守台付近に新しく建てられた。3代目は寛永期の天守閣で、3代目将軍家光により1638年(寛永15年)、現在の天守台地に約58メートルの五層の天守閣が完成した。
 現存する天守台は、1657年(明暦3年)の大火で寛永度の天守閣が焼失した後、1658年(万治元年)に築き直されたものであるが、天守閣そのものは4代目将軍家綱の叔父の保科正之の提言により再建されなかった。
 その後何回か再建の話はあったようだが実現まで至らず現在に至る。そして今「江戸城天守を再建する会」が認定NPO法人として取得発足し、再建への道がかなり開けて来た。しかし、まだまだ壁は厚い。会員皆意欲を燃やして頑張っている所である。

 

※「富士見櫓」、天守閣が明暦の大火で焼失した後は再建されなかったため、この富士見櫓が天守閣の代わりをしたと伝えられている。
※蓮池濠から石垣の上に美しい「富士見多聞」。桜の花を通して見る多聞。絵になる風景である。なんとも「感動」である。
※宮内庁庁舎、この3階から両陛下は様子をご覧になった。人出の多さや桜の花が残っていたことを喜ばれたという。
※「乾門」を出た所の写真。10分程歩いて地下鉄「竹橋」に着いた。

 今度「坂下門」から入場して右側の東南隅にある富士見櫓を大変良く見ることが出来たが、旧江戸城本丸では現存する唯一の櫓で、遺構の中では最も古いものに属するといわれる。1657年(明暦3年)の大火で焼け、1659年(万治2年)に再建された。さらに関東大震災で倒壊したが、1925年(大正14年)に主要部材に旧来の材料を用いて再建されたものである。
 三重櫓で、石垣の高さ約14.9メートル、櫓の高さ約15.5メートル。どこから見ても美しく見えるので「八方正面の櫓」とも呼ばれていると言う。天守閣が明暦の大火で焼失した後は再建されなかったため、富士見櫓が天守閣の代わりをしたと伝えられる。

 今回裏から見て大変感動した「富士見多聞」は、旧江戸城本丸にあった15棟の多聞のうちこの富士見多聞は唯一の遺構であると言う。多聞とは、長屋造りの櫓の一種で、武器庫である。脇に「御休息所前多聞」と刻まれた石標がある。御休息所は、中奥にある将軍の私的な居間であったと言う。この富士見多聞を蓮池濠から見て、写真のように長大な石垣が連なり、なんと多聞までの石垣の高さは、約20メートルもあるらしい。
 今回は「坂下門」から「乾門」までのコースであったので説明しておく。
 「坂下門」は江戸時代この門は旧江戸城の西の丸裏御門や紅葉山東照宮へ通ずる門であったらしい。枡形であったものが、明治21年、明治宮殿の造営に当たり、高麗門を撤去し、北向きの形になった。現在の坂下門は、宮内庁の正面にあって、皇居に出入りする際に最も頻繁に利用される門と言う。この門を入ると右手奥に宮内庁庁舎がデーンと建っている。
 今回2014年(平成26年)4月4日から8日まで、天皇陛下が平成25年に80歳の傘寿を迎えられたことを記念して、陛下の御計らいにより、この坂下門から乾門まで約750メートルを一般公開し、皇居の桜を見てもらおうと思われたのである。見学中私のとなりにおられた80歳ぐらいの御夫妻は「静岡から皇居のこの桜を見に泊まりがけで来ました。人が多くて大変ですね〜。」と言われておりました。宮内庁の調査によると4月4日から4月8日までの5日間延べ約38万5千人で最も多かった5日土曜日は1日約10万人と言う。桜の木はかなり大きく、上を見るだけで見られるので、皆満足されたのではと思われる。
 陛下の御計らいで秋にも紅葉の季節に合わせ11月下旬〜12月上旬に5日間一般公開が予定されていると言う。どちらかと言えば、紅葉の方が良いのではと思った。
 災難や震災などでは陛下は必ず心を痛められ国民に激励のお言葉を述べられ、時々一般公開を実施されることも直接陛下からのお申し出だと思うと、平成天皇の優しい心使いを感じる。
 宮内庁幹部の話によると、天皇、皇后両陛下は5日午前、宮内庁庁舎3階から乾通りの様子をご覧になり、人出の多さ、桜の花が残っていたことを喜ばれたという。感謝、感謝。

皇居正門鉄橋(二重橋)
出所: http://ja.wikipedia.org/wiki/

平成26年5月5日 記


前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2014