東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.172

〜歴史探訪 一人旅〜
山口県の「風水」と「瑠璃光寺」
青木行雄
※お寺の入口に立派な石塔があった。
※正面から見たライトに照らされた五重塔。すばらしい景観であった。
※遠望に見た五重塔。山の中に浮かぶこの塔は妖精のようだった。
昼間に見る、五重塔。新緑の中に見事であった。

 ホタルが出現する季節、6月のある日、山口県の宿泊先で夕方「一の坂川」にホタル鑑賞へ行って来たらとホテルのおかみさんに言われ出かける事になった。ホテルからその川はあまり遠くはなかった。
 川の両側には住宅があって家から灯りが漏れて、ホタルは出現していたがちょっと馴染めなかった。やっぱりホタル鑑賞は山か森か谷。民家から遠い方がピッタリ来るのかも知れない。
 帰りに「瑠璃光寺」と言う寺にすばらしい「五重塔」があってライトアップしているので見ませんかと誘われた。
 早速見に行ったのだが、なんと新緑に囲まれたその塔はライトアップされていて闇の中に浮き上って見えた。なんと美しいのだろうか。女性的なその美しさは妖精が森の中に立っている様な気がした。それ程神秘的な視界に感動だった。
 早速この神秘的な塔と山口の「風水」について関係がありそうなので調べてみたのである。

 「風水」とは
 「風水」とは中国で生まれ東アジアに広まった思想で、その土地での自然・環境観やそれに対応した生活術のことである。「風」と「水」は絶えず動き、流れ、循環して「気」を運びもたらす。「気」とは「陰陽」に分けられ、季節や山の形や川の流れなど土地の形勢によっても、生に影響をあたえる陰陽のエネルギーのことをいう。陰陽のエネルギーからなる「気」の流れを、地勢・地脈・方位・「鬼門」などから読み取り、都市・住居・墓などを造る時に土地の吉凶を判断すると言う。
 風水では、山を背にして南に開けた地で、前面に池や河川を臨む「背山臨水」、山丘が襟のように、川が帯のように囲んでいる「山河襟帯」、風をためて水を得ることができる「蔵風得水」、四神獣(玄武・青龍・朱雀・白虎)によって四方を守られた「四神相応」の地が、理想的な場所とされている。
 この「風水」について、山口のまちの発展は室町時代の大内氏が鎌倉と並んでこの中世の「風水」が残る数少ない都市であった事がわかった。大内氏が取り入れた「風水」を毛利氏が引き継ぎ、運気が集まる「風水」を継承していたと言う。
 風水と陰陽師は深い関係にあると言われているが、この大内氏が「陰陽師」を京から招いていたことが記録に残っているらしい。200年近い間、大内氏が朝鮮半島や中国大陸との交易を通じて大いに栄えたことや毛利氏が明治維新の大業を成せたこともこの「風水」によるまちづくりが礎であったと言われる。
 この「風水」を追求して行くと、陰陽師から『源氏物語』まで遡ることになるのでやめるが、瑠璃光寺も風水の思想に基づいていることがわかって、その美しい「五重塔」の妖麗さに納得である。
 ここで「瑠璃光寺」について記してみたい。
 山口県山口市山口県庁の近くにあるこの「瑠璃光寺」は福井の永平寺と横浜鶴見にある総持寺が本山で「陶氏六代弘房」の菩提寺である。陶弘房は(大内氏第一の重臣)1468年(応仁2年)、応仁の乱で京都の相国寺で戦死したので、その夫人「妙栄大姉」が夫の菩提を弔うため、弘房持佛の薬師如来をもって本尊として山口の奥地仁保に1471年(文明3年)瑠璃光寺を建立したと言う。
 開山は石屋門派の知識大庵須益大和尚、中国三山の一つといわれ、江戸末期まで、僧禄司の要職を務め、常恒会16ヶ寺の中に入る格式を与えられていたと寺史に記されていた。
 1586年(天正14年)毛利元就次男吉川元春(岩国城主)が小倉で逝去した時、瑠璃光寺11代華翁和尚が、その導師となり寺を霊牌所とし「随浪院殿海翁正恵大居士」の法号により、海翁寺とした。当時300余の末寺があった為、のち藩の了承を得て、瑠璃光寺に復号したと言うのだ。
 この「瑠璃光寺」のすばらしい五重塔について記録する。大内家25代大内義弘が応永の乱において戦死したので、弟の盛見がその霊を弔うためにこの五重塔を建立した。完成は1442年(嘉吉2年)で塔の高さは31.2mで、屋根は檜皮葺で、各層とも軒の出が深く屋根の勾配は緩やかで、形状は女性的で優美なことで有名である。
 一層内にある須弥壇はケヤキ造りで円形で他にはないと言う。1992年(平成4年)、建立550年にあたり記念として、石塔が寺境内に建立された。
 建立は1442年(嘉吉2年)と言うから見ごたえのある塔である。
 塔の高さが31.2mあり中心の柱が五層目まで届いていると言う。太さはわからないが30mぐらいある大木を使っているようだ。
 この塔は日本の塔で10番目に古いもので、この塔も国宝である。全国に国宝は9基あると言う。
 この塔は「日本の三名塔」と言われ、他に奈良の法隆寺と京都の醍醐寺の3塔である。
 日本の国宝、全国の五重塔を記して参考にしたい。やはり国宝は見る価値は十分にあってすばらしい。

 

順番 時代 寺社名 所在地 建立年 年数
(2014年から)
1 飛鳥 法隆寺 奈良県生駒郡斑鳥町 680 天武9 1334
2 平安 室生寺 奈良県宇陀市室生村 780 延暦 1234
3 平安 醍醐寺 京都府京都市伏見区 952 天暦6 1062
4 鎌倉 海住山寺 京都府木津川市加茂町 1214 建保2 800
5 室町 明王院 広島県福山市 1348 貞和4 666
6 室町 羽黒山 山形県鶴岡市羽黒町 1372 応安5 642
8 室町 興福寺 奈良県奈良市 1426 応永33 588
10 室町 瑠璃光寺 山口県山口市 1442 嘉吉2 572
16 江戸 東寺 京都府京都市九条町 1644 寛永21 370

 

 国宝の五重塔は9塔あり、欠番は重要文化財である。
 重文の中に室町時代に建立した宮島の厳島神社の塔は1407年(応永14年)で607年経っている。重文の中に東京では桃山時代に建立した大田区の池上本門寺1607年(慶長12年)407年前と、台東区上野の寛永寺の塔がある。1639年(寛永16年)で375年経っている。
 国宝の中で、江戸時代に建立した京都の東寺は54.8mあり、日本一だが京都に行くと駅からも良く見える。国宝で2番目に高いのは奈良の興福寺、50.1mあり、夜のライトアップはいつ見てもすばらしく感動で、室町時代の威光を放っている。
 この「瑠璃光寺」の本尊は薬師如来である。「薬師如来」と言う仏様はどんな方なのか、いつも何となく手を合せ拝んでいるが…。寺史に記されていたので記してみる。

※本尊、薬師如来堂。

「薬師如来」
 人間は、虫も殺さぬ顔をしているが、知らず知らずのうちに悪言・雑言を吐き、獣肉類を食し、殺傷をしている。人生終焉に際して、過去を懺悔するため、研修を受けるのである。それが、七日毎に行う法要である。これも十三佛信仰から来たもので、七・七日が十三の真中で、これを満中陰と言う。四十九日の法要を無事済ませた時、生前お世話になった方々に満中陰志(香典返し)が配られる。この七・七日に出てこられる仏様が「薬師如来」で、七・七日の研修が終わった亡者が病気にならないようにと薬壷から薬を渡し、亡者はこれを頂いて阿弥陀如来の居られる西方浄土へと旅立って行くのである。
 即ちそれまでが陰で吾々が年寄りから聞かされた亡者が家の軒下をうろうろしているというのがそれである。それから先は陽である。
 お釈迦様は教育を主体とされているが、お薬師様は人間の欲望である無病息災・家内安全・五穀豊穣等に答えられるお方で、吾々が仏様にお願いすることは、殆どお薬師様と言うことらしい。特に眼病にはご利益があるといわれている。
 お釈迦様、お薬師様に参拝し、ご利益を頂きたい。
 神社・仏閣に参拝を重ね、手を合せ、頭を下げる事は、人生哲学でも必要とされている。

参考資料
瑠璃光寺 史料
『日本史年表』岩波書店

瑠璃光寺の御本堂と参道
出所はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/

平成26年6月8日 記


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