東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.176

〜歴史探訪 一人旅〜
「両国国技館」の歴史と現在

青木行雄

現在の両国国技館の施設の内容について

所在地 東京都墨田区横網1丁目3番28号
管理運営 公営財団法人 日本相撲協会
竣工 1984年(昭和59年)11月
収容人数 11,098人(B1Fアリーナ1300席・1F枡2600席・2Fイス2600席)
階数 地上2階・地下1階
高さ 39.6m
総工費 150億円
設計 杉山隆建築設計事務所 代表 今里 隆
  鹿島建設建築設計本部
当時理事長 春日野清隆氏
建設会社 鹿島建設株式会社

※新国技館の主な特長
@国技館の建物が災害時防災拠点になっており、非常時には約3万人分が3日間使用出来る生活用品と、非常食が備えられていると言う。
A防災時、地震や火災が発生した場合、1万1千人が僅か5分で避難出来る構造になっている。
 昭和59年11月に新しく建築した施設の内容である。

 先代の旧両国国技館は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあったと言う。この旧両国国技館は1906年(明治39年)6月に着工、3年後の1909年(明治42年)の5月に竣工して6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用されたと記録されている。この旧館の設計は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られている辰野金吾とその教え子葛西萬司等で「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来すると言う。当時の工事費用は27万円と記されていた。
 「国技館」の名称は、1909年(明治42年)5月29日に板垣退助伯爵を委員長とする常設館委員会で話し合われるも決まらず、開館式の前日にこの「国技館」と名称が決まったと言う。

※新国技館の入口。ここを入場すると別世界の雰囲気になる。

※ライトアップされた国技館「大鉄傘」すばらしい。防災時、地震や火災の発生時には、1万1千人が僅か5分で避難出来る構造と言う。

※「新国技館」現在の「大鉄傘」。この大屋根の大きさは、国内でもまれなる大屋根である。

 その8年後の1917年(大正6年)11月29日1階の売店より出火した火災で回向院の本堂も含め全焼した。その後使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行されている。
 新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、1918年(大正7年)7月に地鎮祭・起工式が行われ、1920年(大正9年)9月に再建興行が出来たものの、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失した。外観はそのまま内装を再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開している。
 太平洋戦争中の1944年(昭和19年)、1月の春場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用されたという。このため5月の夏場所は後楽園球場(番付には小石川後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。日曜日の晴天の日は大観衆8万人以上スタンドまでギッシリ埋った日もあったと言う。
 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲によりまたも焼失。同年5月23日から本場所は神宮外苑で晴天7日間の開催予定だったが宮中喪や空襲で延期され6月に国技館で傷痍将兵の招待以外は非公開で行われた。日本相撲協会の興行史上唯一の本場所非公開開催である。大鉄傘が空襲で破損したため、屋根なしの晴天7日間の興行であったと記されている。なんとすごい時期もあったのだと思う。

 敗戦後の1945年(昭和20年)10月26日には連合軍最高司令官総司令部(GHQ)により再度接収され、両国メモリアルホールとして改称・改装された。改装は翌年1946年(昭和21年)9月24日完成。改装前の1945年(昭和20年)11月中旬には焼け爛れたままの国技館で敗戦後初の本場所が行われている。晴天10日間の露天並みの興行だったと言う。これも又記録に残るすごい開会であった。
 占領軍から本場所開催許可の一つの条件として、意味はよくわからないが、「土俵を広げよ」という要請があったというが、1場所限り、土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.8m)に広げた。(ただし1場所で元に戻る)改装後の1946年(昭和21年)の11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることなく、1946年(昭和21年)11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となったと言う。
 以後はプロボクシングやプロレスリングなどの会場に使用され、全日本柔道選手権大会の会場にも使用されている。

 1952年(昭和27年)4月1日接収解除後、日本相撲協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでに蔵前国技館の建築が始まっており、様々な理由により使用を断念、国際スタジアムに売却することになった。そして1958年(昭和33年)6月日本大学に譲渡され「日大講堂」となった。

 この日大講堂は、日本大学のイベント等よりはプロボクシングやプロレス、コンサートなど多くの興行に使用された。
 そして1982年(昭和57年)老朽化のため使用中止となり、翌昭和58年に解体された。
 幾度かの再建や改修を経つつも解体されるまで「大鉄傘」の姿を堅持したままであり、相撲協会理事長を務めた武蔵川親方は博物館明治村への移築も考えたと言うが、あまりにも大きな建物であり、断念したと言う。
 そして解体後の跡地には複合ビル施設「両国シティコア」が建設された。

 なお、敗戦後の大相撲の興行場所は、神宮外苑相撲場などでの野外興行を経て、1949年(昭和24年)1月に日本橋浜町仮設国技館で行われた後、翌1950年(昭和25年)1月に蔵前仮設国技館へ移り、その後1954年(昭和29年)の完成以後、1984年(昭和59年)の9月秋場所まで蔵前国技館を使用していた。また日大の入学式・卒業式は1983年(昭和58年)以降、日本武道館で挙行されている。

 1985年(昭和60年)1月場所より使用されている現在の建物(新国技館)は二代目になる。国鉄バス(現JRバス)駐泊場、旧両国貨物駅跡地に建設された。
 写真にも見られるようにこの新国技館は地上2階建、地下1階、総工費150億円(全てを借金なしでまかなったと言う)
 建設計画発表から3年の歳月で1984年(昭和59年)11月30日に完成し、翌年1月9日に盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露された。その場所で、千代の富士は全勝優勝・怪我を押して強行出場した。北の湖は1勝も出来ずに「引退」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。
 現在では大相撲の本場所、引退相撲、NHK福祉大相撲などで相撲協会自らが使用するほか、新日本プロレスのG1 CLIMAX決勝戦(2014年を除く)に使用され、1991年から毎年11月に高専ロボコンの全国大会、1992年からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には国技館5千人の第九コンサートが行われている。2020年東京オリンピックでは、ボクシング競技会場になる予定と言う。
 今里隆氏一級建築士(杉山隆建築設計事務所)が著書『屋根の日本建築』にはこの新国技館をプランから、完成までの苦労話が詳しく記載されている。
 一つのものが完成するまで、その人が思いをかける度合いは人それぞれ違うが、今里氏の新国技館にかける思いの度合いの重さが伝わって来て感動した。

※ちょうど秋場所の最中であった。幟と「大鉄傘」。日本だけに見られるすばらしい風景である。

※客が居なくなった後の会場風景。慌しく片付ける店員の姿など、見ても楽しい。

※この「満員御礼」の垂れ幕には、日本伝統の特別な雰囲気が漂う。

1906年 明治39年 6月 着工
1909年 明治42年 5月 竣工
    6月2日 開館式
      6月場所より大相撲始まる
       
1917年 大正6年 11月 火災
1918年 大正7年 7月 地鎮祭・起工式
1920年 大正9年 9月 再建興行
1923年 大正12年 9月1日 関東大震災
1924年 大正13年   再建、夏場所興行
       
1944年 昭和19年 1月 春場所を最後に
    2月 大日本帝国陸軍に接収
    5月 夏場所、後楽園球場で
1945年 昭和20年 3月10日 東京大空襲
    5月23日 本場所を神宮外苑で
    8月15日 終戦
    10月26日 連合軍(GHQ)により接収
1946年 昭和21年 11月 秋場所のみ一度開催
       
1952年 昭和27年 4月1日 GHQ接収解除
      国際スタジアムへ売却
1958年 昭和33年 6月 日本大学へ譲渡
      日大講堂となる
       
1982年 昭和57年   老朽化のため使用中止
1983年 昭和58年   解体される
       
1984年 昭和59年 11月 新国技館竣工

参考資料
 『屋根の日本建築』 NHK出版
 「国技館」百科事典 「ウィキペディア」
 『日本史年表』 岩波書店

平成26年9月28日 記


前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2014