東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.177

〜歴史探訪 一人旅〜
秩父の「龍勢祭」

青木行雄

 秩父の「龍勢」とはご存知だろうか。毎年10月の第二日曜日に秩父吉田村の山間部において「椋神社」例大祭に奉納する神事として代々伝承されてきた。地元住民の手作りによるロケットのことで、別名「農民ロケット」とも呼ばれているらしく、テレビ等で何回か紹介されたことがあった。
 この「龍勢」に詳しい友人から誘いを受けて、10月11日地元の民宿にお願いして、この「龍勢」を見学に行くことになった。

※池袋駅から特急で約1時間20分。西武秩父駅へ。ここからバスに乗車し、約50分で吉田村に着いた。

※龍勢を奉納する椋神社の本殿。当日、神事と祝詞があがり神社も多忙しい。

※のぼり旗が至る場所に設置されている。

※丸太で組んだ櫓の上から発射される「龍勢」の様子が見える。

※観客の向こうに発射台と垂れ幕が見える。15分おきに打上げる準備中の一時。

 

 日本全国神社の奉納祭りは様々あって深川の八幡神宮の3年に一度大祭のみこしも同様地元に伝わる神事のことである。この「龍勢祭」も珍しい神事といわれ全国から15万人もの人が集まる「祭」である。
 この「龍勢」は松材の筒に多量の黒色火薬を詰め、まっすぐに飛ばすため矢柄と呼ばれる竹をつけて上空へ打ち上げる煙火である。轟音と共に上空に駆け上がり、落下傘などの背負い物を開き、矢柄を吊り止める等の精密な仕掛けは全て手仕事で仕上げられるという。打ち上げた「龍勢」は、極力、櫓後方の山中へ落下させるよう努めているそうだが、予期せぬ方向に飛ぶことも考えられるので山火事などの防止のため、注意が必要で、消防と警備員がかなり配置されている。
 当日は、各流派が秘伝と独自の工夫を凝らし、製造してきた「龍勢」を今年は30本も打ち上げた。
 製造流派は「日の本流」「桜龍流」「東雲流」「藤舞流」「白雲流」等々20以上の流派がそれぞれ心血注いで製造した龍勢を奉納するわけだが、上手く上がるロケット、失敗する場合と様々あった。
 30本打ち上げるには、午前8時半頃から約15分おきに午後4時半頃まで順番に打ち上げていく。木材の丸太で組んだ25m程の櫓を使用し、櫓にすえられた龍勢の火薬筒の下部の口火から導火線に火をつけて打ち上げる。点火すると轟音と共に火を吹き出し、一瞬にして300m位も舞い上がり、昇りつめると落下傘に吊り止められて、流派ごとに独創性のある仕掛けを披露する。その打ち上げの成否に一喜一憂をしながら、迫力に満ちた手作りロケットを楽しむのだ。見ていてハラハラする場面がたくさんあって、上がらず失敗すると製作者に同情して、心が打たれる。成功すると全員大拍手となる。「百聞は一見に如かず」、一見が大感動の瞬間であった。
 打上げの前に各流派で祝詞があがる。

 

※発射台から上昇する「龍勢」の発煙。かなりの音がして舞上る。

※上昇して行く「龍勢」の姿が良く見える。300m程上昇して爆発、様々な姿に変わるのが楽しみの1つである。

※上昇して爆発した。落下物が様々な姿に変わって行く様子。

 

 奉納される秩父市吉田の「椋神社」がどんな神社なのか、由緒を最初に紹介しよう。
 「日本武尊が当地赤柴にて道に迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根方の泉近くに『猿田彦大神』が立たれ、赤井坂に導かれる。これにより大勝を得られたので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として『猿田彦大神』を祀り給うた。これを当社の創めとする。鉾より光の出た所を『光明場』(あかしば)という。

 

西暦710年 (和銅3年)

芦田宿禰守社殿を造営したのが始まりという。

西暦871年 (貞観13年) 従5位を賜る。
西暦901〜923年 (延喜年間) 延喜式神名帳に秩父郡二座、秩父神社・椋神社(国幣小社)と誌される。
西暦1575年 (天正3年) 戦国時代の兵火を受けて焼失した社殿を鉢形城主北条氏邦によって再建。
西暦1604年 (慶長9年) 江戸城の用材として境内のケヤキの大木36本を送る。椋神社神主、神田明神の鍵番を徳川家康に仰せつかる。
西暦1873年 (明治6年) 椋神社、村社に列せられる。
西暦1876年 (明治9年) 吉田東、西、阿熊学校を統合し境内に校舎建設、椋宮学校とする。
西暦1882年 (明治15年) 椋神社、県社に昇格する。
西暦1884年 (明治17年) 秩父事件勃発、椋神社に困民党集結す。  次に、吉田「龍勢」の起源と由来を記してみたい。

 

 次に、吉田「龍勢」の起源と由来を記してみたい。

 椋神社縁起「椋五所大明神由来記」(1725年)によると、日本武尊が奉持した鉾より発した光のさまを尊び、後世氏子民が光を飛ばす行事として、往古より神社前方の吉田川原で大火を焚きその燃えさしを力の限り投げて、その光でご神意を慰め奉った。火薬が発明されるや、これを用いて火花を飛ばし現在の龍勢のもととなったと言う。夜間見るときは星のごとく、よって流星と書き、昼間見るときは雲中に龍の翔るがごとく、よって龍勢と呼ぶようになったようである。
 現在の龍勢は松材を真二つに割って中をくり抜きこれに竹のタガをかけて火薬筒とする。この筒に硝石、炭、硫黄を原料にして火薬を作り、キメ棒をカケヤを使い詰めていく。最後に筒の底に錐で穴をもみ噴射口を開け、背負い物と共に矢柄(長い竹竿)に組み付けて完成する。背負い物には、唐傘、のろせ、煙火、吊るし傘などがあり昇りつめた龍勢から放たれてひらひらと落ちながら秋空を彩る。これらの製法は各集落に近年まで伝わり、現在では火薬製造の資格を得た27の流派がこれを受け継いでいると言う。

 

 1997年(平成9年)埼玉県無形民俗文化財指定を受け、テレビ等紹介されて、見物者が多くなった。

 地元の「椋神社」「秩父市」「観光協会」等は、年に一度の「龍勢祭」に力を入れている。宮司・薗田稔氏、秩父市長・久喜邦康氏の当日の挨拶を記してみた。

 

 宮司・薗田稔氏
 「秩父の豊かな風土を織りなす四季の変化は、人々の繊細な感覚と自然を愛する心を育み、先人たちは豊かな祭礼文化を築き上げてきました。
 山柴水明と謳われた秩父の郷、それに連なる美しい山河は、日本の伝統的な地域の在り方を今に伝えています。豊かな自然に籠る神々の恵みに感謝し、自然の摂理に逆らわず、心おおらかに安心して生きることは、遠い祖先の残した家郷の訓でもあるのです。
 400年以上の歴史を誇る吉田地域伝統の龍勢が、天翔ける龍の如く秋空高く舞い上がることを期待します。」

 

 龍勢祭実行委員長、秩父市長・久喜邦康氏
 「龍勢祭が、関係各位のご尽力により盛大に開催されますことに厚く感謝申し上げます。また、遠方よりお越しの皆様方には心から歓迎を申し上げます。
 本年も、龍勢が轟音を響かせながら秋の空を舞い上がります。また、アニメ『あの花』ファンの願いを込めた龍勢も打ち上げられますので、どうぞ心ゆくまでお楽しみください。
 歴史と伝統ある龍勢祭が安全に、かつ盛大に開催できるよう努力をしてまいりますので、皆様の応援をお願い致します。」

 

龍勢の構造
※背負い物(シヨイモノ)
 唐傘、花火、落下傘などの仕掛けをセットする。伝統技術の見せどころで、各流派によって異なり、龍勢の個性が決まる。

※火薬筒
 松材をくり抜き、竹のタガで補強してから黒色火薬を詰める。
 下部に噴射口を開け、上部には仕掛けのための導火線を通す穴を開ける。

※矢柄(ヤガラ)
 前もって切り出した青竹を天日で乾燥させ軽くした後、火薬筒に縛りつけ方向舵の役割をさせる。長さは約10間(約18m)ある。

 

 有料の座席と一般席に別れた数万人の人々が、15分おきに打ち上がる「龍勢」に一喜一憂しながら、祝詞の後発射の瞬間を臨場感を味わいながら、それぞれに酒を酌み交わし、花火見物と同じように没頭する。飲み過ぎて寝る人、写真を撮りまくる人、人それぞれだが、日本のしきたりや伝承の多さに感心しながら、この「龍勢」を一年がかりで製作した多くの人々の苦労も目のあたりに感じながら、楽しませてもらった。

 

※白いテントが本部席。客の中には食べ物を持込んでの宴席もあった。

※飲み過ぎて疲れたのか、発射の最中に夢の中。空場所はこの後すぐに満席となった。

平成26年10月13日 記


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