東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(97)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 2020オリンピック開催決定を契機として湾岸地域は大きく変貌を遂げると云われております。東京都区内の地域間競争に於いても、リニア中央新幹線の発着駅となる品川周辺と並んで最も注目されています。
 当社が新木場に進出して30年以上になりますが、移転当初、唯一の交通手段は東西線東陽町駅からのバス便のみでありました。今では、湾岸道路、JR京葉線、りんかい線、地下鉄有楽町線が開通し交通の要衝となりました。
 住めば都と申しますが、北にはスカイツリーが聳え、南は東京ゲートブリッジが開通し、恐竜と云われる威容を誇っております。
 私も歳の所為か、都市の発展よりも、昔から変らない花鳥風月にものの哀れを感じるようになりました。
 冬の晴れた日には、林立する超高層ビルの隙間から、雪を頂いた富士の麗峰を遙拝することが出来ます。
 脇を流れる曙運河には、『伊勢物語』にも登場した都鳥がやって来て、街路灯の上に止って、水面を見つめ獲物を狙っています。
 鴨の群でしょうか、20羽程の家族が子育て中で、春に向って大移動する準備をしています。
 野鳥について教えを乞うべく、「江東区の水辺に親しむ会」理事長S女史に相談しますと、早速、自然生態の専門家T代表と、江東区議会の若手議員A氏を伴って来社されました。当社の屋上から富士の眺めを絶賛され、新木場に棲む野鳥は、他に「カワウ」、「コサギ」、「オナガガモ」、「ハクセキレイ」などが居ることを御教示賜りました。私が鴨と思っていた家族は「オオバン」であることも知ることが出来ました。同好の士を募って観察会を実施しようということになりました。

オオバン ユリカモメ オナガガモ
コサギ カワウ ハクセキレイ

 当社は元は深川で操業していたこと。深川はゼロメートル地域で昔はよく水が出たこと。ある夜、雪が降り、水門を管理する係のおじさんが、雪見酒と洒落こんで、寝すごして水門を閉め忘れ、翌日出社したら事務所内は水浸しになっていたこと・・・等を話しました。
 昭和34年、伊勢湾台風が来て、貯木場の丸太が暴れて名古屋市内に流出し、5000人の死者が出たことが契機となって、新木場集団移転計画が進められたことも話しますと、それでは、深川の歴史について是非話して欲しいと云われ、余計なことを話さなければよかったと大いに後悔しましたが、一念発起して俄勉強を始めました。
 深川の歴史は、徳川家康による江戸開府に遡ります。江戸城建設の為、全国から木材と建設業者が集められました。江戸城を中心として、旗本、御家人、大名屋敷が建ち、街作りが始まりました。当初は日本橋に材木置場がありましたが、木材は可燃物のため、幕府の指定により深川が木材置場となりました。寛永18年(1641)のことでありました。
 東京都港湾局発行「図表で見る東京臨海部」を繙きますと、寛永6年(1629)深川漁師町が埋め立て造成されました。今の佐賀町、永代、福住、深川に当ります。深川という地名が生まれたのは、万治年間(1658−1660)深川八郎右衛門今の三好、東砂辺りを造成埋立した功に始まります。
 東京湾で最も早い埋立は、文禄元年(1592)日比谷の入江です。それまで江戸は200戸程の小さな漁村でした。漁民は浅瀬にひび)と呼ばれる竹を立て、海苔を採取していました。埋め立てた陸地は日比谷となりました。
 信長の弟で織田有楽斎という大名が居りました。関ヶ原の戦に東軍の武将として出兵した記録がありますが、これと云った武功はなく、茶人として戦国の世を上手く泳ぎ、調政役に徹していたようです。屋敷内に数奇屋造りの茶室を建て、有楽町、数寄屋橋と云う地名が残っています。
 江戸時代の初期は今の小名木川の位置に海岸線がありました。
 大手木材問屋の大番頭S氏が10年程前に、組合月報に投稿されております。S氏の父親は川並でありました。随想「川並」考によりますと、寛文元年(1661)両国橋、新大橋は1693年、永代橋は1696年完成しました。
 角乗りとは川並(筏師)が水に浮かぶ筏を動かす技術を生かして行う作業の余技で、駒下太乗り、梯子乗り等、曲芸まがいの芸もあります。
 木遣りは、筏師が四季を問わず厳しい気象条件下で、作業を心を合わせて行う為の掛け声などが労働歌として定着したものです。
 今では筏作業はほとんどなくなり、伝統芸として、「角乗り保存会」、「木遣保存会」として残っており、お祝い事があったとき等招かれて披露されております。
 深川の歴史は新木場に引き継がれました。
 新木場の水面貯木場が材木で満杯になったのは、高度経済成長がピークに達し、国内の住宅着工戸数が190万戸となった昭和49年(1974)でありました。以後、輸入丸太の産出国の産業構造の変化や、住宅着工の減少により、水面には丸太は見られず、新しい局面を迎え、貯木場埋立による新木場改造計画も出て来ております。これも時代の変遷と云ってしまえばそれまででしょうが、形は変っても深川時代から受け継がれて来た、働く人々の気風は失って欲しくないものであります。

埋立地の変遷
寛文11年(1671) 天保14年(1843)
明治19年(1886) 昭和56年(1981)現在




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