東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(99)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 早いもので、年が明けて3ヶ月、花の季節となりました。
 30年以上昔、清澄庭園の池に浮かぶ涼亭というお座敷で、同好の仲間を募って、悠幻亭玉介という太鼓持の芸を楽しんでおりましたら下記のような一席がありました。
 「お月様とお日様、それに雷さんが連れ立って旅に出ました。宿に泊って雷さんが起きますと、お月様とお日様が居りません。女中さんに訊きますと、『もうお発ちになりました』そこで雷さん『月日の経つのは早いものですね』女中さんが『雷さんはいつお発ちですか』『私は夕立ちです』」
 1月17日は、阪神淡路大震災の19周年、3月11日は東日本大震災3周年を迎えました。
 大相撲春場所は、大関鶴竜が初優勝と横綱昇進を手にしました。ファンの悲願であった日本人横綱は実現しませんでしたが、譬え外国人であっても、まじめで好青年横綱の誕生を歓迎していることでしょう。今年は何かよいことが始まる吉兆ではないでしょうか。
 将に春爛漫、桜は今が盛りであります。この時節は、折角の桜が雨と風によって、いつまで保つか、今度の土日まで待ってくれるのか、と気が揉めること頻りであります。
 「明日あると思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」
 これは平安歌人の作ですが、物事は先延ばしにしないで出来るときにやりなさい、という戒めの引合いに出されることもあります。
 「春風さんよ ぬしの情けで咲いたじゃないか 何故に吹いたかゆふべのあらし」
 これも30年以上の昔、新橋の烏森神社に鎌倉から小唄の師匠が来て教えてもらいましたが、この唄は仲間の弟子が習っているのをきいて憶えてしまいました。これは、春風を男、花を女に譬えて、男女間の恋の駆け引きを謳ったものでありましょう。それでは、春風さんとあらしは同一の男か、或いは第2の男か、彼等の恋は如何に発展するのでしょうか。
 もう20年近く続いている「ら、ろんどの会」があります。国語の先生で、NHKで朗読の番組を担当されていたT氏が発起人となり、「これから人生のキャンバスを豊かに彩るグループ」と銘打って発足しました。メンバーの長老格N氏は、会の運営から会報の編集に献身的に尽くして下さいました。3年前、花の季節に小金井公園でお花見の会があり、その後久しく途絶えておりました。2年振りに会合のお報らせが来て、N氏が小金井の花見の後、京都へ行かれて、気の置けないお仲間との宴の後、急逝されたことが判りました。「ら、ろんどの会」は中心人物を欠いた為、久しく会合が途絶えていたことを知り、西行法師の辞世の和歌を想い出しました。
 「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」
 人が多勢通る駅へ昇る階段などで人集りがありますので、何だろうと近付いて見ますと、会社が火事に遭って焼け出された、などと云って、焼えかすと一緒に万年筆等の品物を取り出して通行人に見せ、客を装った男が、「これはよい物だ」と云い言葉巧みに他の客の買い気を誘う、これを「サクラ」と昔から云いましたが、この詐欺行為と花がどうしてもしっくり結びつかない。中学生の頃、数学の先生が、授業の合間に解説してくれました。
 第1の説 「商売がうまく行った」と云って仲間同志で桜色の舌をベロッと出す。
 第2の説 これは不法行為であり、警察官が咎めに来ると、皆一勢にパッと散る。
 2つの説とも今一納得できないまま40年以上経過しましたが、ある時『歴史街道』という月刊誌を読んで居りましたら、「成る程」と納得できる説が載っておりました。
 首尾よく商売が成功したとき、仲間にコインを1枚ずつ配りました。コインには桜の花が刻まれておりましたので、仲間のことを「さくら」と呼ぶようになりました。
 当社の事務所がいわき市にあり、スーパーひたちで出発して勿来駅で停まりますと、ホームの柱に、長細い板が副えられており、八萬太郎義家が詠んだ和歌が記されています。
 「吹く風を勿来の関と思えども道も狭に散る山桜かな」
 武将はただ強いだけでなく、雅心のあることが一流と云われました。出張の時期がたまたま桜の季節であれば感慨も一入であります。
 3月14日ホワイトデーと云ってバレンタインデーにチョコレートを貰った男性が1ヵ月後にお返しをする日でありますが、元禄14年3月14日と云えば 「風誘う花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」これは旧暦ですから恐らく桜が満開であったことでしょう。
 赤穂藩主浅野内匠守は、朝廷の使節饗応という大役を仰せつかり、マナーの指導を受けた高家筆頭吉良上野介のあまりにも酷い仕打ちに、我慢が出来ず、松の廊下で刃傷に及び、即日、一関藩田村右京太夫江戸屋敷で、切腹を命ぜられたとき詠んだ世辞の歌であります。このような優雅な歌を詠む教養人が何故法を犯して、お家断絶にまでなったのかと思うと300年後の今日でも残念でなりません。
 東海道ネットワークの会で、忠臣蔵ゆかりの地を歩こうという企画がありました。両国駅に集合し、吉良邸跡から、南部坂雪の別れ、田村町の由来となった、右京太夫江戸屋敷のあった処には、浅野内匠守切腹の地と記した石碑があり、田村氏の子孫が町会長をされており、説明を賜り、最後はお線香の煙棚引く47士の墓に詣でました。今日は桜をテーマに歴史探訪をして参りました。
 「年々歳々花相似たり歳々年々人同じからず」 これは古代中国劉迂芝の詩であります。
 桜の季節は、来る人去る人あり、新しいことが始まるときでもあります。来年の桜の季節には一体どんな世界になっていることでしょうか。

清澄庭園
出所: http://ja.wikipedia.org/wiki/




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