東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其の22

花 筏


〜木場歳時記〜

其の十一 新年会

 どちら様も正月の公式行事は新年会より始まる。木場にても恒例により、お歴々が揃って東京木材問屋(協)の7階大ホールにて開催された。
 ところで「問屋」とは何なのか。発祥は古く本来は「問い屋」が語源の様であるが、本来は産地と仲買の中間に位置し、金融、情報、在庫の流通の三大要素を握っていた。即ち、@荷主に「山を買うから」と言われれば信用ダケで前金を出し、仲買が「苦しい」と言えば何ケ月でも金利ナシで待ってやり、A先の見通しを問われれば的確な予測を教え、B市況が好不況に関わらず頼りになるだけの在庫を持つのが本来の「問屋」と言うなり。
 このスタイルがいつ頃より変わり始めたかと申せば、戦争後のあまりの需要の旺盛さに元来は関西商法の「競りの市売」が関東でも爆発的に流行して、関東の「付け売り」を凌駕した。この頃より「市売り」が流通の本流となり「付け売り」は自己崩壊を始める。このセリ売りの関西商法は昭和初期に東京でも試みられたが、この時は関東ではどうも馴染まず、かなり頑張った様だが撤退した過去があった。この為に旧来の木場の大問屋は戦後処理、即ち「需要の動向と供給の在り方」を見誤った、前例の為に「問屋の力」を過信し過ぎた。
 日本中で何百万、何千万もの家が不足していたのである。とても問屋の力だけで収まる事態では無かったのである。旧来の問屋もメーカーもそれまでの流通が最優先で仕入れも売りも新規は「お断わり」であり一種のパニック状態であった。その間隙を突いたのが地方の三流メーカー〜コレハ、チト語弊ガ有ルノデ、中央に繋がりの無い工場、〜と訂正。とにかく物不足なのである。一流も三流も産地も関係なく売れる。セリはズブの素人でも声を出せば買えたのである。こんな有難い商売が流行らぬ訳が無い。お陰で戦(雨)後はタケノコと材木屋ばかりとなったのである。
 一業種だけがそんなに蔓延って良い訳が無い。その精算が只今おくればせ乍ら始まったところである。早く陽が当たった所は早く陰るの道理である。その意味では此れからが成熟した材木屋の時代となる筈である。市況商品と同列ダと思っているのは真の材木屋では無かんべーぇ。市売りの功罪は多々有ると思うが、その発展と歩調を合わせた如く旧来の道徳的規範が消滅し、その為に利は頭越しに有るとの観念が公然と横行し始めたのは如何かと思う。
 例えば或る日、古くからの近県材の大店が突然、大工、工務店に直売りを始めた。それまで親戚同様の付合をしていた小売店の上位ばかりを一年掛りで調べての事である。今迄のお客の怒るまいことか、そのドナリ声は一ケ月近くも続いていた。結局「ウチも食べていかねばならんので」と言うコメントで幕となったが、此の様な事も問屋衰退の要因であろうし、仲買も転送等で知り合った工場と何時の間にか直取引をしている。荷主も仲買に積極的にアプローチをして売り込む。どっちもどっちだか、今では大半が元に戻っている。な〜んでか。要は「隣の芝生はグリーンに見える」と言うわけなのだ。
 その気持ちは判るが、それを始めると「植林から棺桶まで」となり、結果はケつまづく。要はプロはプロらしく「餅屋は餅屋」らしく、他人の命をかけた商売に敬意を払いこそすれ軽々に手出しをするなという事。それと商売は「情」の有る無しだと思いまっせ、そうでしょう。タタキ放題ブッ叩き、首吊りの足を引っ張るのは犯罪と紙一重、イヤ、犯罪でしょう。これを「天にツバする」と申し何時の日にか因果は巡り来て自分の頭に降って来る事になりまっせ。人はえてして小金がが溜まると昔を忘れ聖人君子の如き錯覚におちいり高所より物を言う事になる。これ程ご高説を拝聴していて聞き苦しい事も無い。知らぬが仏でお里が知れるとは正にこの事であり、心いたし度き事の一つである。
 本来の問屋というのは、大工、工務店が直接買いに来ても、住所を聞いて一番近くの取引の有る小売店を紹介して、もし必要な物が有れば品物は渡しても、伝票はそちらに廻して置くのがセオリーでござんした。勿論、値段は大いに勉強を致してであるが。
 なんでも、戦前はお客様にもあらゆる角度から評価したランクが付いていたそうで、お互い口には出さぬが承知の上で商売が成り立っていたとの事。何せ当時は仕入れ先は問屋しかないのだから今とは別世界で全てが違うので参考にもならぬと思うが、例えば、
一、 松(A)は、何処ででも好きなだけツケで買えるが、その分支払もキチンとしていて、毎月、晦日には雪が降ろうが槍が降ろうが勘定だけは争ってイの一番に持って来る。これが生き甲斐だ、ポリシーだ!というお客さん(小売屋殿)
一、 竹(B)、半分位の問屋では買えるが、その他の店では紹介者が必要、支払は普通。
一、 梅(C)、一軒の問屋オンリーで、その店に無い物はその問屋の引取切手が必要。当然、丸抱えのため支払は「有る時払いの催促無し」のいわゆる盆・暮れ勘定。
 この比率は二・五・三とかで、問屋としては松のお客が理想だが、松ばかりだと儲けにはならぬが「苦しい時の松頼り」てぇんで全然ナシと言う訳には参らず各店共に少しだけ。竹が普通で、問題は梅。こればかりだと潰るが儲けは一番多い。要は両刃の剣である。またこのジャンルは所謂ベンチャーが多いので、将来に期待して貸していた問屋も多い。
 小売屋筋も意欲の有る者は一日も早くワン・ランクでも上を目指す事となり、大いに頑張り思いが達成された時の喜びは又格別であったとのことである。この様なランクも第二次世界大戦の勃発により、個人営業の廃止(1942年)と共に消滅を致し、戦後は市売市場の台頭となり歴史の有る大店も昨日出来た店も等しく平等となって復活ならず、その後は外材時代到来と共に約手全盛となり、此れ等の歴史を知る者も少なくなった。
 以前は新規の店でも、その店主の修行した店の名を聴けばそれなりの見当が付いたが、最近は横文字・片仮名の氾濫で見当も付か無い。商標(ロゴ・マークとは違うのダ)の持つ意味も希薄になり、「屋号」は歌舞伎の世界だけとなった。〜ところで近い将来には「桧舞台」と言う言葉が消え「スプルース舞台」と言う事になるゾ!と言っていた変な外人がいたが、あながち冗談に聞こえないのが辛いところである。その昔、一世を風靡した「秋田金看板」と言う言葉も謂れを知る人も無く歴史の彼方に消えつつある。木材に限らず文明の進歩が至る所で日本文化を飲み込み破壊している。恐ろしい事である。

 =おわり=

 


昭和30年〜40年代の木場
路面電車の軌道がみえる木場の風景
 
 

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