東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.179

〜歴史探訪 一人旅〜
世界文化遺産 京都伏見の「醍醐寺」探索

青木行雄

 京都の伏見にある「醍醐寺」は真言宗醍醐派の総本山で、874年(貞観16年)に弘法大師の孫弟子、聖宝理源大師が創建したと言われている。山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った聖宝は白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神より、こんこんと水(醍醐水)が湧き出るこの山を譲り受け、准胝・如意輪の両観音を山上に祀った。それが醍醐寺の始まりとされているようだ。
 JR京都駅(八条口(ホテル京阪前))から醍醐寺行きのバスに乗って約30分終点醍醐寺で下車。駐車場から通称「仁王門」といわれる「西大門」にたどりついた。日本の寺院の中で2〜3番目と言う広大な広さ、私有山林も含めて200万坪にもおよぶ境内を有し、東京ドーム200ヶ分以上もあると言うこの醍醐寺。金堂・祖師堂・観音堂・弁天堂等々が広大な敷地に点在している。日本で3番目に古いといわれる「五重塔」は国宝で京都では最も古い見ごたえのあるすばらしい塔で圧倒された。
 醍醐天皇の菩提を弔うために第一皇子・朱雀天皇が936年(承平6年)に着工し、第二皇子・村上天皇の951年(天暦5年)に完成したと言う。初層の内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれていると言うが見ることは出来なかった。高さは約38メートルあり屋根の上の相輪は約13メートルある。相輪が塔の三分の一を占め、実に安定感を与えている。
 広々として庭園の森の中にデーンと建っているこの「五重塔」は実に歴史を感じ、これこそ日本の伝統芸術の最高峰ではないかとしばし見とれてしまった。
 1994年(平成6年)12月に世界文化遺産に登録された醍醐寺は「木の文化・紙の文化」の伝承の宝庫と言える。開山以来、僧侶、天皇、貴族、武家、民衆……多くの人々の祈りの中に醍醐寺はその歴史を育み、文化を伝承してきたとこの寺史には書かれている。
 現在、建造物や諸堂に納められている諸尊以外の寺宝、伝承文化財は総床面積千百坪もある「霊宝館」に集められている。
 醍醐寺の寺宝・伝承文化財は、国宝69,419点、重要文化財6,522点、その他未指定を含めると仏像、絵画をはじめとする寺宝・伝承文化財は約15万点にもおよび、古代、中世以来の貴重な宝物が静かに安置され、毎年その一部が春夏秋冬で展示替えが行なわれこの「霊宝館」で公開されていると言う。見学してまたまた圧倒された。
 明治維新期の「廃仏毀釈」により、京都・奈良を中心とする多くの寺院は、財源を求め、仏像や什物の譲渡を余儀なくされた。特に海外への流出が盛んに行われたのもこの時期であったと言う。醍醐寺も大きな試練に立たされたが幸いにも醍醐寺は、三宝院に伝承される二つの法流、すなわち三宝院流と、当山派修験としての恵印法流を同等に伝承すべき立場に立脚し、一山に伝わる一切の宝物を、一紙に至るまで流出させないことを旨として、困難な時期を乗り越えることが出来たと言われる。
 1905年(明治38年)からは、寺独自の努力で、調査・目録作成が始まった。この努力は、年を追うごとに学術資料としての重要性を高く評価されるに至り、今日の「醍醐寺文化財研究所」の設立基盤となり、文化財管理の基礎となったと言われる。
 この「霊宝舘」をゆっくり勉強しようと思えば何日かかかりそうであった。


※入場する前の参道。200万坪もあると言う敷地は広大である。秋の紅葉前であったがかなり色づいていた。


※醍醐寺内案内図。「仁王門(西大門)」が受付で入場料を支払入場した。

※「仁王門」(西大門)。この門を入ると受付があって、案内される。1605年(慶長10年)豊臣秀頼の再建。

※紅葉がまだちょっと早かったが見事な朱塗りの弁天堂。

※鐘楼堂。朱塗りのこの堂も色はえていた。

※「真如三昧耶堂」の中にこの「涅槃像」はある。

※「霊宝館」の玄関口。国宝・重文だけで7万点。未指定の文化財を含めると、約10万点余りの寺宝が収蔵されていると言う。

※「霊宝館」の中に納められている「薬師如来坐像」(国宝・平安時代)

※みごとな「しだれ桜」この写真は醍醐寺パンフよりお借りしましたが、すごい。春「霊宝館」の窓から見ることが出来る。

 その中、こんな歌をメモして来た。
 「あらためて 名を替へてみむ 深雪山 うづもる 花も あらはれにけり」(秀吉)
 「深雪山 帰るさ惜しき 今日の雪 花の面影 いつか忘れん」(松)

 こんな「醍醐花見短籍」が何百首か書かれている。
 この醍醐寺は長い歴史のなかで何度も火災にあい、応仁・文明の乱では五重塔を残して下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃していった。
 ながらく復興に至らずにいたが1598年(慶長3年)の春、豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に秀吉と秀頼によって金堂や三宝院、また山上では開山堂や如意輪堂などが再建されたと言う。
 江戸時代に入ると、醍醐寺歴代座主が居住する三宝院が、幕府より当山派修験の本山であると明確に位置づけられた。そのことにより、山への信仰が高まり、一時衰退していた修験道も再び活気を取り戻していったと言う。
 明治維新後の「神仏分離令」や「修験道廃止令」などの数々の法難で大打撃を受けたが歴代座主の尽力により、開山以来、醍醐の教えは燈し続けられ現在に至っている。
 五重塔をしみじみ眺めてみると、木造建築がこんなにも美しいものか、1000年以上も昔にこんなすばらしい日本建築の美と技術があったのかと圧倒される。まだ見ていない人には是非見てほしい。おすすめの「寺内と塔」である。

 

※「金堂」(国宝)。豊臣秀吉の命によって紀州湯浅から移築。秀頼の時、1600年(慶長5年)に完成したと言う。

※この「五重塔」951年(天暦5年)に完成。みごとと言う他はない。

※1階の軒下、見事です。1000年以上も木が木を支えている。

平成27年1月10日 記


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