東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.180

〜歴史探訪 一人旅〜
昭和の大横綱「双葉山」の生涯

青木行雄

 東京日暮里の日蓮宗「善性寺」に双葉山こと穐吉家の墓がある。JR日暮里駅から4〜5分の所で、繁華街からすぐの所に穐吉家の墓「双葉山」は静かに眠っている。
 本場所の数も少なかったあの昭和初期の時代に、69連勝を成しとげた昭和の大横綱「双葉山」の生涯は小学校時代の右目の失明と小指の先の失傷などにより、決して楽な相撲人生ではなく、こつこつと築き上げた苦難で波乱万丈の一生であったと思われる。

 

 双葉山は1912年(明治45年)2月9日、大分県宇佐郡天津村布津部(現在は宇佐市大字下圧)で、父穐吉義広、母みつえの次男として生まれた。本名は「穐吉定次」。父の義広は中津市船場町の内田家から、布津部の穐吉定兵衛の養子にきた。父は小柄で、双葉山の立派な体格は母親譲りであったようだ。母は双葉山が9歳の時、風邪がもとで亡くなっている。
 双葉山の生まれた場所は、大分県宇佐市の西を流れる伊呂波川の河口で周防灘に面しており、海の仕事で生計を立てる人が多かったと言う。

 

 父義広の仕事は、船で荷物を運ぶ廻船業であった。主に中津から大阪へ木炭を運び、木炭の売買も手掛けて順調であった。しかし定次が小学校4年生の時、父は事業に失敗して、莫大な借金を抱えてしまう。この借金返済のため、双葉山は中学進学の勧めも断り、父の仕事を手伝うことになる。
 父義広と双葉山は2人で帆船「日吉丸」で杵築市日出の馬上金山の鉱石を、大分市佐賀関の精錬所まで運搬する仕事をしていたが、ある時船は悪天候にあって沈没、辛うじて2人は他の船に救助された。その後、他人の船に雇われ仕事をしたが決して楽なものではなかったようだ。
 自叙伝の中で「船乗りの生活は重労働の連続で、角道の修行もずいぶんと苦しいものには相違ないが、船乗りの労働より苦しいと思った事は一度もない」と述べている。
 この苦しかった船の労働の仕事が「双葉山の二枚腰」といわれる相撲取りとしての強靭な身体や、猛稽古にもくじけない精神力を育んだようである。

 

 双葉山の幼少の子供時代は気が弱く、相撲は大の苦手で、大人が鎮守の森などに子供を集めて相撲をとらすときなどいつも逃げまわり、こういう時は近寄らなかったと自叙伝にも書いている。

 

 父の事業失敗の後、借財の返済に苦労して働いていた頃、大分出身の豊国と言う力士がいた。地元ではこの力士が活躍中で、相撲人気が大いに盛り上がっていた。相撲嫌いの双葉山ではあったが、少し相撲に興味を持ち始めた頃、近くのお宮で奉納相撲が行われていた。皆から無理に勧められ、仕方なく土俵に上がった双葉山は、身長5尺7寸(173センチ)、体重19貫(71キロ)の当時としては立派な身体で、この相撲大会で優勝してしまった。
 これが『大分新聞』に「稀らしい、中津の怪童、16歳の23貫餘、大物喰ひで足袋は12丈、将来は角力になる」と取り上げられた。この記事を見たのが、大分県警察部長をしていた双川喜一氏である。立浪親方から有望な青年がいたら紹介してもらいたいと頼まれていたため、さっそく定次親子を呼んで相撲入りを勧め、入門が決定した。
 四股名の由来は、双葉山が通った天津尋常小学校への通学路の途中に「二葉神社」というお宮がある。双葉山も、ここで学校帰りなどには遊んでいたこともあり、この双葉山の四股名は、恩人で親代わりとなって世話をしてくれた、双川喜一氏の「双」の字を頂き、命名されたと云うことのようだ。

※双葉山の生家。木造茅葺、44.66m2
 穐吉澄子さん(双葉山夫人)より寄贈
 住所:大分県宇佐市大字下圧269

※双葉山生家の前にある。双葉山生誕90周年事業の時の碑。

※双葉の里。この碑も、双葉山生誕の地の前に建っている。

 だが双葉山には、入門の前から相撲取りとしては致命的と言われるハンディが二つあった。
 一つは右目の失明である。5歳の時、友だちといたずらごっこをしている時、(吹矢があたったとも言われる。)約1年間治療受けたが治らず、ずっと失明に近い状態であったようだ。また11歳の時父の手伝いで船に乗りロープをウインチで巻いていて小指の先を挟んでつぶしたと言う。相撲の取り組みで、まわしを取るときには小指から入れるようでかなりのハンデがあったようだ。

 

 1927年(昭和2年)2月、地元では体格が優れ、皆に励まされて立浪部屋へ入門した双葉山であったが、相撲界ではさして立派な身体とはいえず、注目もされなかった。
 しかし、稽古熱心で朝早くから起きて稽古したのだが、起きるのが早すぎると怒られたこともあったと言う。そんな熱心な稽古の成果、目立たないながら順調に出世していき、15歳の序の口から負け越しなしで、当時としてはスピード出世の4年で十両になったと言う。それでもまだ注目の力士ではなかったようだ。

 

 1931年(昭和6年)5月、19歳で十両に昇進したが、「春秋園事件」や彼の人柄から、正攻法の相撲を取ることに専念して勉強。時間はかかったが、ただ勝つだけの勝負ではなく、近道をせずコツコツ努力をして、力をつけていき、正攻法取組みで次第に強くなっていったのである。
 1932年(昭和7年)の2月場所から、1935年(昭和10年)の5月場所まで星取表を見ると時間はかかったようだが苦労が良くわかる。
 1935年(昭和10年)までは平凡な成績だった双葉山が翌年に入って急に強くなる。技術的な進歩はもちろんのこと、稽古に励んだことや、身体が大きくなってきたことが大きな要素と言える。そして、1936年(昭和11年)1月場所で6日目横綱玉錦に敗れ2敗する。7日目に瓊ノ浦に勝ってから連勝が始まった。この場所は9勝2敗の好成績を収めたが、当時これが世紀の大記録、69連勝のスタートだと誰も思った人はいないと言われる。
 続く5月場所では初めて横綱玉錦に勝っての初優勝。それも全勝優勝をしたのである。
 この時の父親からの愛情こもった電文に双葉山は何よりもうれしく涙したと言う。
 電文 「フタバ ミンナカツタノオ チチ ウレシ ヨシヒロ」
 簡単ではあるが、宇佐弁で語りかけるような、親の愛情のこもった電文に涙する。
 この全勝優勝で、やっと世間に注目を集め始めた。この年は2.26事件が起こり、世相は次第に暗い影を落とし始めたころである。それだけになお、双葉山の活躍に明るいニュースを求めていたのであろう。
 1936年(昭和11年)1月16日、連勝記録が始まったこの場所は、前頭三枚目から一挙に関脇に昇進する。5月場所では11戦全勝し、場所後大関に昇進、翌1937年(昭和12年)1月場所も11戦全勝で優勝すると、双葉山の連勝とともに、相撲人気も空前の盛り上りをみせ始めた。詰めかける観客を収容できなくなり、次の5月場所からは一場所13日となった。国技館から溢れる観客を少しでも緩和し、一人でも多くのファンの要望に応えるとの趣旨だったと言うが、それでも国技館前は入場出来なかったファンがあふれかえったという。
 5月場所も13勝全勝で優勝し場所後、第35代横綱に推挙されたが、その直後、父義広が亡くなった。苦節10年、昭和2年に入門してからちょうど10年目で頂点にのぼりつめたのである。昭和13年1月場所、5月場所とも、13戦全勝優勝で飾り、連勝は66となる。連戦連勝の双葉山に、ファンは国技館に殺到したと言う。

 

※このようなしきりは今も昔も同じやり方で、いつ見ても緊張する。

※右四つに組んで、上手投げの特技は双葉山が得意だった。

 連勝を続ける双葉山は、全ての力士の目標となる。双葉山に勝った者が、新しいヒーローになれると全ての力士が彼を目標に努力した。その一端に雑誌『改造』に『横綱双葉論』まで発表され、双葉山攻略法まで書かれる程になった。
 多くの力士の研鑽にもかかわらず、双葉山の連勝は、不動のもののように思われていた。そして1939年(昭和14年)1月場所、4日目の1月15日は、前頭三枚目新鋭安藝ノ海との対戦である。この取り組みは、初顔合わせで、特に注目されていたわけではなく、観客は70連勝を確信していた。ところが意外にも、双葉山は安藝ノ海の左外掛けに左腰から崩れ、浴びせ倒されてしまった。
 ラジオの実況のNHK和田アナウンサーは、双葉山の敗戦に我が目を疑い、横に居た先輩アナウンサーに、「双葉山負けましたね」と2度も確認したそうである。それだけ目の前で起きたことが信じられなかったのだろう。
 それから「時、昭和14年1月15日、旭日昇天正に69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安藝ノ海に屈す、双葉山70連勝ならず」の放送となった。場内は騒然となり、座布団などあらゆるものが舞い、新聞の号外が出るなど「70連勝ならず」は社会的大事件であったと書かれている。敗れると号外まで出たのは双葉山ぐらいである。
 安藝ノ海は、双葉山の「連勝を止めた男」として相撲史に名を残すことになる。
 その安藝ノ海が出羽海親方に勝利の報告をした時、親方は労をねぎらった後「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と言ったと言う。すばらしい名言であり、すばらしい親方であると感心する。
 双葉山はいつものように無言で引き上げた。まわりの人は双葉山があまりにいつもと変わらないのに驚いた。しかし動揺が無かったわけではなく、翌5日目から4敗したと言うが原因は場所前、軍の慰問の巡業で満州へ行った折、アメーバー赤痢という病気にかかり、帰国後も回復が遅れ、体重が20kgもやせて体調も不調であったと言われる。
 しかしその後、70連勝は出来なかったが、次の夏場所では全勝優勝で、その後安藝ノ海には一度も負けることはなかったと言う。
 その後、1月場所、5月場所の年に2回場所の時代に69連勝の後、全勝優勝は3回で優勝は7回している。
 1945年(昭和20年)、終戦の年、6月場所(戦時中につき不規則)の初日、双葉山は相模川佶延との取り組みに勝って後は休場し、これが最後の取り組みとなる。秋場所中の11月25日に引退を表明、翌21年11月19日、国技館で横綱引退・時津風襲名披露大相撲が行なわれる。断髪式では、本場所を上回る観客から、引退を惜しむ声や、すすり泣きが絶えなかったと言う。
 引退した双葉山は、年寄・時津風を襲名する。当時あまり名門とは言い難かった時津風を継ぐ、そして双葉山は、一代でこの時津風を名門の部屋に育て上げた。新興の部屋ながら、横綱・鏡里、大関・大内山、北葉山、豊山をはじめ、幕内力士26人、十両20人の関取を一代で育てたのである。

 

 引退した昭和21年、双葉山こと時津風は検査役に推されたが、目が悪いことを理由にこれを辞退した。この時初めて彼の目が見えないことを知り、ハンディを負いながらの偉業に改めて驚嘆した。昭和22年には検査役を経ないで協会の理事に就任。昭和25年に取締役常務理事、31年に理事長代理、32年には45歳で相撲協会の理事長に就任し、亡くなるまでの11年間理事長を務め、協会の近代化を推し進めた。その功績は多大であった。
 1968年(昭和43年)12月16日、双葉山は劇症肝炎で東大病院にて死亡している。56歳の若さであった。相撲の神様とまでいわれた双葉山は、東京日暮里の善性寺の境内に家族と共に静かに眠っている。

※東京日暮里の善性寺の山門。この奥左側の奥に双葉山の墓がある。

※日蓮宗善性寺の本堂。しだれ桜の葉が秋風にゆられ、ひらひらと落ちていた。

※善性寺の境内にある穐吉家の墓。この中に双葉山は静かに眠っている。

※出典:http://www.usa-kanko.jp/

 

双葉山についてのまとめ
本 名 穐吉 定次
四股名 双葉山定次
生年月日 1912年(明治45年)2月9日
身 長 179cm
体 重 128kg
所属部屋 立浪部屋→双葉山相撲道場
特 技 右四つ、寄り、上手投げ
初土俵年月 1927年(昭和2年)3月
横綱昇進年月 1937年(昭和12年)5月
引退年月 1945年(昭和20年)11月
没年月日 1968年(昭和43年)12月16日(満56歳)
生涯戦歴 348勝116敗1分33休
幕内戦歴 276勝68敗1分33休(31場所)
愛 称 不世出の横綱、相撲の神様、昭和の角聖

 双葉山の生涯をたどってみると、相撲を通して人間を磨いた人という印象を強く持った。逆境に挫けることなく、正攻法でコツコツ努力をして行く生き方。努力なくして成功はありえない、と示してくれた大先輩であったように思う。

 

資料 『横綱双葉山の生涯』
   『日本史年表』岩波書店

平成27年2月8日 記


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