東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.182

〜歴史探訪 一人旅〜
世界遺産の誕生と
富岡製糸場の誕生について

青木行雄

 1959年(昭和34年)エジプトのナイル川流域にアスワンハイダムを造る計画が持ち上がった。翌年ユネスコは、このダム底に沈む危機にあった貴重な古代遺跡アブ・シンベル神殿を救うための国際キャンペーンを始めた。また、1966年(昭和41年)にイタリアのヴェニスが水害にあい、貴重な文化遺産が被害を受けると、ユネスコは復興の支援に乗り出した。このように1960年代以降、国際協力によって世界的に貴重な文化遺産を守ろうとする考えが広がり始めたのである。
 その頃、アメリカを中心として、貴重な自然と歴史的環境を守るための「世界遺産基金」をつくろうとする動きが同時に起こっていたのである。
 これらの動き・考えがひとつになり、1972年(昭和47年)のユネスコ総会で「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(通称「世界遺産条約」)が成立し、世界的な価値を持つ文化遺産と自然遺産の保護を国際協力によって行う、世界遺産という仕組みが誕生したのであった。
 1975年(昭和50年)が条約発効年なので、今から40年前のことになる。だが、それから17年も遅れて、1992年(平成4年)に日本の条約締結について国会承認。日本はやっと発効されたのである。2014年(平成26年)6月に富岡製糸場は登録されたが、6月現在で締結国数は世界で191ヶ国になったと言う。
 この「世界遺産条約」は1975年(昭和50年)に成立して10年ほど過ぎた頃から、登録された遺産の種類や、地域などに偏りがみられるようになった。それは、@自然遺産に比べて文化遺産がとても多い Aヨーロッパの遺産が他の地域と比べて多い B歴史的都市や宗教関連の建物が多い といった問題なのである。
 ユネスコはこの問題解決のために、1994年(平成6年)均衡性、代表性及び信用性のあるユネスコ世界遺産一覧表のための「グローバル・ストラテジー(世界的戦略)」というプロジェクトを始めたのだと言う。

 2014年(平成26年)6月25日現在、富岡製糸場を入れて世界遺産は全部で1007件あり、その内訳は、文化遺産779件、自然遺産197件、複合遺産31件で種類のうえでの偏りはまだ解消されていない。また地域的にみても、ヨーロッパの遺産がほぼ半数を占める一方で、条約加盟国であっても登録遺産を持たない国が30ヶ国もあるのである。このような偏りをなくすための取り組みは、引き続き行われている。日本もこれからの遺産申請は益々難しくなって行きそうである。

 こんな中「富岡製糸場」は2014年(平成26年)6月に「ユネスコ世界遺産一覧表」に登録記載されたのである。

 世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」はどのような世界遺産なのか。

 富岡製糸場はフランスの技術導入から始まり、日本独自の自動繰糸機の実用化まで、製糸の技術革新が絶え間なく行なわれてきた。
 「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、高品質な生糸の大量生産に貢献した。19世紀後半から20世紀の日本の養蚕・製糸分野における世界との技術交流と技術革新を示した絹産業に関する遺産である。日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化を更に豊かなものへと変えていった前向きの姿勢は大変賞賛すべき出来事だと思う。
 それではこの「富岡製糸場」の設立背景を記してみたい。

 江戸時代末期に幕府は鎖国を解き外国と交易を開始し、1859年(安政6年)に横浜などを開港した。
 その当時主な輸出品として生糸と蚕種の需要が急激に高まったが、その頃の日本は伝統的な手動の繰糸法である座繰製糸であったため、良質な生糸を大量生産できず、粗悪品や偽物を輸出し、不当な利益を得ようとする商人たちが増えて問題になったようである。
 このような問題に対し諸外国から強い不満が出され、更に外国資本導入の動きもあったようである。こうした問題を解決する目的で政府資本による模範器械製糸場の設立が1870年(明治3年)2月に決定されたと記されている。
 この時設立に関わった人々を記して見ると、器械製糸場設立の緊急性を感じた大隈重信、伊藤博文等の協議により、官営模範製糸場設立が決定したのである。そして当初は民部省が所管し、渋沢栄一や杉浦譲、尾高惇忠などが担当し、中心的役割を果したと書かれているが、ここのガイドは、渋沢栄一の写真を大きく掲げ、その功績を詳しく説明していた。
 この設立の指導者としてポール・ブリュナと雇入れの本契約を結び、また建物の設計のために横須賀製鉄所の製図工だったオーギュスト・バスティアンを雇入れしたと記されている。

 政府は生糸に精通したこのフランス人のポール・ブリュナに製糸場建設のための「見込書」を提出させ、その後彼を指導者として仮契約を結んでいる。
 そしてブリュナは工場建設に必要ないろいろな条件にかなったこの群馬県の富岡の地を選んだのである。
 そしてポール・ブリュナはフランスから生糸検査人、技術者、繰糸教師、医師ら写真によると14人の人々を雇入れ、富岡製糸場の設立や操業に関わっている。
 建築資材も日本で調達できないものはフランスから輸入し、木材や礎石は近隣の官林や山から切り出し、煉瓦はフランス人指導者の指導のもと瓦職人が隣町で作っている。
 当時、フランスから輸入したものをあげてみると、繰糸器械、動力用蒸気エンジン、ガラス、鉄製の窓枠などであった。

 

※繰糸場の入口玄関でこの奥にフランス式繰糸器がみごとに並んでいた。

※検査人館。ここで検査されていたのであろう。

 この度、縁あってこの世界遺産になった富岡製糸場を見学する機会を得て参加した。
 明治初期に造られた木骨煉瓦造建築で大規模なものがよくもまあほぼ当時のまま保存されたものだと、感心して注意深く見て廻った。
 大規模木造建築に興味があって、しかも明治初期の木造建物であるこの製糸場は、一見の価値は十分にある。
 建物の特徴とこの価値を資料より説明してみたい。
 官営当初期に建設された主な建物は木の骨組みの間に煉瓦を積み上げ壁を成す「木骨煉瓦造」で建てられている。小屋組みにはトラス構造が用いられており、繰糸場には中央に柱のない大空間が出現している。また、当時の日本はまだ照明設備が不十分であったため繰糸場にはガラス窓を多用することで自然光を最大限に利用している。明治初期に造られた木骨煉瓦造建築で大規模なものとしては、日本で唯一完全な形で残っているものと言われている。

 「木骨煉瓦造」について
 名称の通り、木の骨組に煉瓦を積み並べた構造で、西洋から入ってきた建築技術である。主に、柱・梁といった木の骨組に屋根の重みなどがかかり、煉瓦壁の部分には煉瓦の重み以外の力はあまりかからない特徴を持っている。そのため、煉瓦だけで建てられた建造物より壊れにくい造りをしている。
 木骨煉瓦造は日本独自の様式ではなく、もともとヨーロッパで見られる造りであったらしい。イギリス・フランス・ドイツなどでは、柱・梁などの木骨を外にむき出しにして、その間に土・石・煉瓦を詰めて壁とする伝統的な建物の様式が見られる。日本国内でも富岡製糸場建設以前に木骨煉瓦造を取り入れて建設された建物では、横須賀製鉄所があると言う。

 このような富岡製糸場「富岡製糸場と絹産業遺産群」は2014年(平成26年)6月25日、ユネスコ世界遺産一覧表に登録記載されたばかりである。

 

※富岡製糸場の入口玄関。

※ここで入場券を買う。

※繰糸場の天井でトラスのハリ屋根ウラが見えるが全部木造。明るくするために窓と白ペンキが塗られている。

※蚕の保存倉庫である。かなり大きな倉庫、木骨煉瓦造の倉庫。柱は木造むき出しである。

 この富岡製糸場の設立に大変尽力のあった人物の一人、渋沢栄一氏をとりあげて記してみる。

 渋沢栄一
 1840年(天保11年)2月13日〜1931年(昭和6年)11月11日
 「近代日本資本主義経済の父」と呼ばれる渋沢栄一は、現在の深谷市血洗島で生まれた。7歳の頃から、いとこの尾高惇忠に論語をはじめとする学問を習った。
 20代で栄一は、惇忠らと倒幕計画を試みたが、大激論の末、計画を中止。その後、京都へ逃れ一橋(徳川)慶喜の家臣となり、領内の経営面で力を発揮する。慶喜が15代将軍の座につき、意に反して幕臣となるが、慶喜の勧めで、1867年(慶應3年)1月、慶喜の弟、徳川昭武に随行して渡欧し、約2年間、ヨーロッパの思想・文化・社会に大きな影響を受けた。1868年(明治元年)11月、幕府が倒れたため帰国。1869年(明治2年)11月、一度は断ったものの大隈重信に説得され明治政府に仕官する。
 明治初期、日本最大の輸出品であった生糸生産のための模範工場を政府自らが、富岡の地に建てることになった。富岡製糸場設立にあたっては、当時、明治新政府の大蔵少輔であった伊藤博文と大蔵省租税正の栄一が担当となり計画が進められた。農家出身で蚕桑に詳しかった栄一は、富岡製糸場設置主任として建設に尽力したのである。
 富岡製糸場が操業を開始した翌年の1873年(明治6年)34歳の時、栄一は大蔵省を退官し、以降、実業界で大きな功績を残していくこととなる。第一国立銀行をはじめ、設立に関わった企業は500余に及ぶ。また、社会福祉事業にも熱心で、東京市養育院の設立をきっかけに数多くの病院や学校づくりに尽力するなど、600以上の社会福祉事業に関わっている。更に国際親善にも寄与し、世界中の人々と幅広い交流を持った人物でもある。

 このように多くの人々の尽力により富岡製糸場は誕生し、世界遺産まで発展したことをまとめてみる。

 

※渋沢栄一の写真。設立に関わった企業は500余りと聞く。

※旧渋沢邸「中の家」深谷市指定文化財になっている。

 

※フランス人ブリュナが居た館である。ここで毎夜、血を飲んでいると、怖がられたと言うが、実はワインを飲んでいたのである。

 

 

 明治政府の近代化政策のもと、主要輸出品である生糸の品質向上と増産を目指して設立された日本初の官営模範製糸場が富岡製糸場である。
 フランスのポール・ブリュナの指導のもと、フランスの器械製糸技術を導入した工場である。創建は写真にもあるように1872年(明治5年)で当時としては世界最大級の規模の製糸場であった。
 導入された近代的な器械製糸技術を学ぶため全国から人が集まり、工女は故郷に戻り、器械製糸技術の指導者となったのである。
 主要な建物が、ほぼ当時のままの良好な状態で保存されており、明治政府が創設した官営模範工場の中でも、操業時の姿をほぼ完全な姿で残しているのはこの富岡製糸場だけだと言う。日本の生糸が明治から昭和にかけてどのように変遷していったのか、手に取るようにわかり、時代の変化に圧倒され、大変勉強になった。

※工場の入口の上に「明治五年」と書かれている。

※繰糸器が導入される前はこんな作業が行なわれていた。

 

※フランス式繰糸器。みごとな器械である。この器械が何列かあった。

 

 

國輝 上州富岡製糸場之図(富岡市立美術博物館蔵)
出典はこちら

 

参考資料
 富岡製糸場パンフ
 「富岡製糸場と深谷の偉人たち」
 『日本史年表』 岩波書店

平成27年4月5日 記


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