東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.187

〜歴史探訪 一人旅〜
鎌倉・「寿福寺」と「北条政子」

青木行雄

 海に臨んで開けた鎌倉は、守り易く、攻め難い要地であると言われるように小高い山が点在し、道は必ず行き止りになる。隣村に行くには一旦出て遠回りをしなければ行けなかった。狭い所に何んと寺の多い場所かといつも思っている。
 そんな鎌倉だが、なんとなく人を引き付ける魅力ある街で、四季折々に変化があって、訪れたくなる。
 源氏の優れた武将であった源頼義、義家、頼朝が本拠地とした理由もそんな攻め難い要地であったからかも知れない。

 そんな寺の多い鎌倉の扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の寺院に「寿福寺」がある。鎌倉五山第3位の寺院であるが、地味で、ひっそりとした寺院であった。
 山号は亀谷山と称し、寺号は詳しくは「寿福金剛禅寺」と山内の横の石塔に書かれていた。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。鎌倉三十三観音第24番であり、鎌倉二十四地蔵第18番である。境内は「寿福寺境内」として、1966年(昭和41年)3月22日に国の史跡に指定された。

 

※鎌倉にはこのような観光人力車がある。寿福寺の前で説明していた。


 

※鎌倉の北口駅前。江ノ電側。乗降客は少ないが、扇ヶ谷方面に行くには近道となる。

 源頼朝公が没した翌年の1200年(正治2年)、妻の北条政子が葉上房「栄西」(明庵栄西)を開山に京都から招いて創建したと言う。

 もともと現在の「寿福寺」のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあったらしい。

 1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したという経緯があるようである。

 

※扇ヶ谷方面への通り道。朝早かったので人影が少ない。この通りを行くと「寿福寺」は近い。8分くらいか。


 

※「寿福寺」山門。

 創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。1247年(宝治3年)に火災にあい、続いて1258年(正嘉2年)の火災では全焼して全て失したと言う。その後の復興は、おそらく南北朝時代の頃と推定されるようである。
 代々の寿福寺には栄西を始め多くの名僧が入寺したと言う。鎌倉の禅宗文化を考える上では、重要な存在の寺院と言われている。
 境内には、総門、中門、仏殿、庫裏(くり)、鐘楼などが建って、仏殿は1664年(寛文4年)の再建と言う。
 境内の裏手で横道を少し行った所に墓地があるが、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、更にその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があり、絶えず生花が捧げられている。
 尚、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開され、誰でも入れるが、中門から内側の境内は一般公開されてなく、入ることは出来ない。様子は外から伺うことが出来た。

 

※山内を入っての参道。


 

※「北条政子」の墓と書いてあった。花が絶えないと言う。墓所と言うより、観光名所という感じである。

 

 また、仏殿は中門から入れないが、仏殿の前と鐘楼の横に大きなビャクシンの大木があって目を引いた。

 仏殿の横の小道を通り、階段を上り右に墓地を通って、更にその奥にやぐらが何箇所かある。北条政子の墓はすぐにわかった。

北条政子について
 1157年(保元2年)−1225年(嘉禄元年)
 政子は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。伊豆国の豪族で、北条時政の長女として生まれる。子は頼家、実朝、大姫、三幡、兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子などがいる。

 

※仏殿。中門より中に入れないので、中門の柵の間より写す。中からお経が聞こえて来た。


 

※このような横穴の中に墓がある。実朝と政子の字が見える。

 伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれ、夫の死後に落飾して尼御台と呼ばれた。法名は安養院といった。頼朝亡き後、征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕府の実権を握り、世に尼将軍とも称された。

 尚、「政子」の名は1218年(建保6年)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前の名前は不明とされている。

 頼朝との婚姻は1177年(治承元年)の頃と推定される。父・時政はこの婚姻には大反対であったという。しかし最終的には時政はこの2人の婚姻を認めた。政子は長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となった。

 寿福寺の開山にあたり、政子が京都から招いた初代住職の栄西と言う人物はどんな人かちょっとふれてみたい。

「栄西」(えいさい、ようさい)について

1141年(永治元年)
−1215年(建保3年)
平安時代末期から鎌倉時代初期の僧である。明庵栄西(みょうあんえいさい/ようさい)とも呼ばれている。
臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。また廃れていく喫茶の習慣を再び伝えた人であるという。
1141年(永治元年)  備中(岡山県)に生まれる。
1148年(久安4年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。
1168年(仁安3年) 南宋に留学、禅宗を学ぶ。
1187年(文治3年) 再び入宋。
1191年(建久2年) 帰国する。
1195年(建久6年) 博多に聖福寺を建立、日本最初の禅道場とする。
1200年(正治2年) 北条政子建立の寿福寺の住職に招かれる。
1206年(建永元年) 重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
奈良の東大寺鐘楼は栄西が再建した建物で、現在見られる日本の鐘楼の中では最高の建物ではないかと私は思っている。何度見てもこの東大寺の鐘楼はすばらしい。
1215年(建保3年) 享年75歳で死去。
7月5日京都建仁寺に入滅す。

 鎌倉は手軽に行けて歴史が満載。四季折々の顔があり、東京から1時間程で行けて旅行気分も味わえる。昔からあこがれの場所であったようだ。そんな場所だから、鎌倉幕府が存在したのかもしれないが、鎌倉時代は長く続いていない。北条政子の足取りを追ってみても、源頼朝との縁で結婚した事が、政子の運命を決め、波乱万丈の人生を送ることになった。

1225年(嘉禄元年)政子は鎌倉にて死去。享年69歳、戒名「安養院殿如実妙観大禅定尼」
 この寿福寺に実朝の胴墓の隣にある。
 鎌倉は鶴岡八幡宮の参拝客でにぎわっていた。
 大通りの桜並木は改修工事中であった。
 何度行っても鎌倉は歴史の深みにおぼれてしまう街でもあるようだ。

 

北条政子(菊池容斎画、江戸時代)
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

平成27年2月22日 記


前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2015