東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(110)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 私は、1994年東海道踏破に続いて翌年(1995)中山道にチャレンジしました。中山道については、東海道ネットワークの会に匹敵するような組織はありませんが、私にとってはそれなりに思い入れがあります。
 今回は中山道中時を思い起こし、歴史探訪します。中山道は東海道に対し裏街道とも云われておりますが、両者を比較し、それらが現代へ、そして未来に向って如何なる影響を及ぼしているかについて考察します。

 中山道の見処5選

 @神田明神 湯島聖堂 本郷の前田邸 六義園 板橋宿
 「苦策破れた将門の」 939年平将門の乱があり、神田明神は将門の霊を慰める為に建立されました。将門の霊は現代にまで及んでいると云われております。大商社の三井物産が本社を建てる際、美濃部都知事が提起した美観論争があり、内堀通り沿いの建物を一律に高さ31Mに揃えるという決まりがありました。当建物はそれに抵触するとのことで建設がかなり遅れました。これは法律論争にとどまらず、将門の祟りではないかと云うことになり、近くの狭い土地に将門の首塚と称して祀り本社ビルは目出度く完成しました。
 「本郷もかねやすまでは江戸の内」国道17号線(本郷通り)の本郷3丁目の少し北側から北西に向って入る道があり、その角地に江戸期に栄えた小間物を商う店があり、そこまでは江戸市内という意の俗謡が生まれました。従って加賀百万石前田家の屋敷(今の東京大学)は江戸の外でありました。赤門は将軍家から息女が降嫁されたお祝いと記念の為建てられ、当時の前田家の繁栄が伺われます。
 六義園は将軍綱吉のとき権勢を奮った柳沢吉保の屋敷跡でありました。板橋は中山道の最初の宿場で、前田家の屋敷もありました。

 

 A「碓氷峠がなけりゃよい」 碓氷峠は中山道三大難所の1つと云われておりました。あと2つは木曽の桟と太田の渡しでありました。
 峠の麓坂本から眺める妙義山は異様な形状で、画伯は私が横川駅から登って来る間に名作をものにしました。新幹線が開通するまでJRはこの急坂をアプト式と云って、大きな歯車を噛ませて登りました。横川駅で機関車を付け換える待ち時間を利用して、峠の釜めしが大いに売れました。坂を上ると夏に賑わう避暑地軽井沢に出ます。ここから沓掛(中軽井沢)信濃追分までの間は夏でも涼しい高原の散策を楽しむことが出来ます。

 

 B松本城と木曽11宿 中山道中を行く為に中央本線に乗りますと特急列車はほとんどが塩尻で岐れて長野まで行きます。従って前の晩松本で泊って翌朝塩尻経由で中央本線に乗るのが便利です。松本城は国宝に指定されている名城で、黒い壁に覆われているので別名「からす城」と云われております。画伯と同道したときは、松本に泊り、馬刺しで一杯が楽しみでありました。木曽11宿は贄川から始まり、奈良井、薮原、宮ノ越、木曽福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠という長丁場で、途中3泊し、雪に閉ざされて2年越しの旅となりました。
 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾を巡る谷の入口である」これは文豪島崎藤村の名作『夜明け前』の冒頭であります。贄川は木曽路の入口に相応しく、中山道は両側を山の懐に抱かれ、同道した画伯は突然憑かれたように、小高い地点を探して、腰を据えるとスケッチを始めました。かなりの自信作と思われます。スケッチが終わると絵具で色付けして完成。2人で出版した旅日記の表紙を飾りました。その日の宿奈良井の手前平沢は、当地でとれる銘木と漆を使った箪笥、長火鉢、食器等を生産し全国に売り出しております。奈良井は宿場当時から奈良井千軒と云われており、多くの宿屋がありました。今でも2階建ての小じんまりとした木造家屋が軒を連ねて民宿等を経営しており、そのうちの一軒、民宿「かとう」を案内板で探しました。私達の他に同年代のご夫婦とご一緒になり、同じ部屋で食事をさせてもらいました。一晩の同宿ですっかり打ち解けて、翌日ひと足先に出立した我々を車で追いかける形になりましたが、ぶらぶら歩く我々に気付くと、ご主人はクラクションを鳴らし、奥方は手を振って走り去って行きました。その日は鳥居峠を越え、薮原宿で昼食、夕刻、木曽義仲旗上げの地、宮ノ越まで歩きました。
 2回目の木曽路は宮ノ越からスタート、関所のある木曽福島で丁度お昼となりました。
 役所で正午を知らせる鐘の音のメロディーがスピーカーから流れ、何んとそれは藤村作詞の「椰子の実」でありました。山国出身の藤村が何故海に関わる作詞をしたのか、その時は不思議でなりませんでした。疑問は約20年後、東海道ネットワークの会で旅した愛知県渥美半島の突端、伊良湖岬の崖の上に「椰子の実」の詩が石碑に刻んであり、その由来を見た瞬間、氷解しました。伊良湖岬を旅した藤村が国文学者柳田国夫氏に会い、柳田氏が伊良湖岬で知人が南の島から漂流して来た椰子の実を拾ったことを聞き、閃いて作詞したそうです。
 その日は学友長岡氏の実家が須原にあり、中山道を歩くことがあったら是非寄ってくれ、と態々手紙まで頂いたので図々しく、一宿一飯のご恩に預かることになりました。関所跡や高瀬資料館等をのんびり見学しておりましたら時間が無くなり、上松駅まで早足で歩き、JRに乗り、ようやく須原駅まで出迎えてくれた長岡氏に会うことが出来ました。長岡家は宿場時代から、有力者として要職に就いておられ、通る人にお茶を出す役を代々勤めておられました。家は、90歳を過ぎた母親と、お姉さんが一緒に住んでおられ、東京在住のお兄さんも来ておられ、家を挙げて歓迎して頂き、昔から代々伝わっているおもてなしに甘えさせて頂きました。翌日は電車で上松まで戻り、野尻まで歩いて帰りました。名所寝覚の床は電車の窓からちらっと見ただけで、実際自分の足で行ったのは、数年前家族で旅行したときまで20年近くお預けの状態でありました。その年は雪が深くて中山道中の再開は、近くに住む友人を誘って行った翌年の3月でありました。季節は春ですが、木曽の山奥は未だ雪が残っておりました。昨年の最終地点、野尻宿からスタートし、三留野で昼食、途中雪道に足をとられ、妻籠の民宿、下嵯峨屋に辿り着いたときは、辺りはすっかり暗闇の中でありました。既に食事が用意してありました。同宿した客は何と旭川からやって来た女子高生でした。10日前に家を出て、今まで駅のベンチ等に寝袋で過ごし、屋根の下で寝るのは初めて、風呂に入れるのが嬉しい、と云って喜んでいました。こんな若者が居れば日本の将来は明るい、と友人K氏と2人でほのぼのとした気持ちになりました。
 翌日は木曽最後の目玉、馬籠宿まで蘭川に沿って歩く山道は素晴らしい。川は急流となって昨夜からの雨と雪どけ水を集めて激しい音を立て、男滝、女滝を経由して急坂道を登り、馬籠宿は11宿最後の宿場に相応しく、文字通り有終の美でありました。私達が歩いたときは馬籠宿は長野県でありましたが、町村合併で岐阜県に併合されました。従って長野県出身の島崎藤村は岐阜県出身となるのでしょうか。その日は落合川橋と云う無人駅まで歩き帰途につきました。

 

 C関ケ原 3月に再開した中山道中も、14宿、4泊し関ケ原ではもう秋風が吹いておりました。駅前は何かイベントがあるのか、テントが3張あり、多くの人で賑わっています。
 今日は1600年9月15日、天下分け目の関ケ原の戦があった日です。テントではパンフレットを配っています。1996年秋さわやかウォーキングと銘打って、戦跡を訪ねて散策し、1周13キロのコースを3時間半かけて廻って来ると、飲み物のサービスを受けられると云う。戦士が大勢亡くなった戦跡を歩いてさわやかになるかどうか分かりませんが、折角の企画でありますので、地図を見て決戦地の方向に歩き始めました。東軍西軍合わせて10万の兵士が戦い、そのうち3万人が亡くなったとしても、4年前の東日本大震災の犠牲者を超える人数であります。いくら400年以上前とは云え、合戦場の跡は何故かしんみりとした雰囲気が漂い、敗れて死んだ兵士達の霊がまだ成仏せずに浮遊している感が致しました。今の日本は平和でよいと思う反面、海外に目を向ければ、東欧州、中近東では銃声が鳴っております。日本も憲法を改正して戦争に巻き込まれなければよいと思いつつ、改めて戦後70年の平和を有難く感じます。

 D中山道中のフィナーレは、ブルートレインで西へ向かい、萱原画伯と琵琶湖の畔りにある国民休暇村で合流し、中山道踏破の前祝いだと云って祝杯を上げました。
 翌日は画伯の義兄弟の実家がある近江八幡を案内して頂きました。最後は以前東京で知己を得たご夫婦が、草津宿の近くに住んで居られ、下町タイムス社長今泉氏に電話があったとき、私達が中山道を歩いていることを知り、ご夫妻で草津本陣前まで出迎えて下さり、私達が自分の都合で歩いて来たにも拘わらず暖かく労って下さいました。
 以上駆け足で中山道中を回想して参りましたが、ところで東海道と中山道の相違は何んだろうと考察して見ますと、東海道は踏破後ご縁があって、東海道ネットワークの会に入会し、多くの方々の知己を得て例会に出席しつつ、20年に亘ってより深く東海道を知ることが出来ました。これに対し中山道はこれと云った組織もなく、長野在住の長男を尋ねて行ったとき、黒四ダムや木曽路を歩く程度でそれ以上深く知ることはありませんでした。
 東海道の方が沿線の人口も多く、大都市も多い。宿場制度が出来た江戸時代も参勤交代で移動する大名家も中山道、甲州街道に比べ圧倒的に多い。伊勢詣りで通る庶民も多い。明治以降は鉄道が敷かれ、東海道本線、山陽本線と九州まで延伸し、高度成長期には、新幹線が九州まで延びて行きました。これに対し、中山道と甲州街道が中央本線と云う形で発展はしたものの、新幹線網は未だ通っておりません。
 ところが、最近起死回生の機会が巡って参りました。東京を世界で最も競争力のある都市にしようという企画が持ち上がり、東京圏(東京九区、千代田、中央、江東、港、品川等)と神奈川、千葉県成田市、他大阪等5地域を指定し、規制緩和、岩盤規制の撤廃、少子化、高齢化対策、特区の指定により外国企業が来ても仕事し易いよう、地方創生も合わせて実施します。これは内閣主導で推進され、東京の品川を起点とするリニア新幹線を相模原、甲府、飯田、中津川、名古屋まで布設、東京〜名古屋間を約40分で結び更に大阪まで約60分で到達可能にします。これによって人口8千万人が住んでいる地域が東京まで1時間以内で到達可能になれば、東京が世界一になる可能性を秘めています。名古屋、中津川、飯田、甲府は中山道、甲州街道とほぼ重なっており、その周辺地域も将来は大きな可能性があります。

 

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2014