東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(113)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 今、東京は大きく変わろうとしています。5年後、東京五輪開催、2027年リニア新幹線が開通の暁には、東京―名古屋間が40分で結ばれます。5,800万人が居住する地域から1時間以内で到達できるようにしないと、東京は国際競争力が低下すると云われております。
 経済、研究・開発、文化・交流、居住、環境と交通・アクセスの6分野を評価採点しますと、1位ロンドン、2位ニューヨーク、3位パリ、4位東京、5位シンガポール、6位ソウル、7位アムステルダム、8位ベルリン、9位香港、10位ウィーンの順位になります。このままでは4位はおろか、5位のシンガポール、6位のソウルに追われ4位の地位も脅かされかねない状態であります。これは我々の感覚では到底理解することはできません。
 今回は江戸時代の初期に遡って、東京の生い立ちについて探訪し、合わせて東京の未来について展望します。
 小田原征伐の功により、家康は秀吉から北条氏の旧領地関八州を与えられました。秀吉は家康を大阪から出来るだけ遠くへ追いやる意図があったようですが家康は些かも不満を漏らさずに甘んじて受けました。
 当時の江戸城は石垣もなく、竹林が茂っており、浅い入江が入り込んでいて、砂州のような地形でありました。入府に際し家康は家臣に命じて充分な調査を行いました。関八州を水路で結び舟運によって物資の運搬に供しました。江戸市内も小名木川等を開削し、埋め立てと水のネットワークによって交通、舟運の便をはかりました。大川(今の隅田川)の出水を制限する為に、利根川の流れを変え、湿地、三日月湖をつないで銚子へ流しました。これは世界を見渡してもスエズ運河に匹敵する大工事であります。
 千代田区に三崎町という町があります。これは、海に突き出た岬のような地形から命名された旨、立札の由来書に出て居りました。三崎と湯島の台地を切り崩して遠浅の海を埋め広大な陸地を造成しました。当時の江戸は200戸に満たない漁村でありました。漁民はひび)という竹を海に立て海苔を採取していました。埋めた陸地は東京ドーム410個分(1.9km2)になり日比谷と命名されました。江戸城を中心に旗本、御家人、大名屋敷が配置され、大名の国元から武士、商人、職人達がやって来て町づくりが始まりました。
 織田信長の弟で織田有楽斉という武将が居りました。兄とは大違いでこれと云った武功もなく、関ヶ原の戦では東軍に属しておりましたが、茶人として社交術に長け、大名間の調整役に徹しておりました。大名屋敷をもらい、数寄屋造りの茶室も造りました。住んだ屋敷周辺を有楽町、数寄屋橋と命名されました。
 井の頭から水を引き、田畑の給水、江戸市民の飲料水に供しました。江戸城の普請は、縄張りの名人、藤堂高虎が行いました。町づくりの工事は天下普請と称し発注されました。人足は石高千石に一人の割で供出されました。東海道はじめ五街道を整備し、大名は江戸と国元を参勤交代によって往復し、宿場は栄え、文化の交流が行なわれました。徳川時代は16代、256年続きました。これだけ、永い間平和が続いたのは、家康が未来に対し壮大な構想を描き、国家百年の計を立て、それがかくも永続したのではないでしょうか。 人の無策1639が国を閉じ。幕府は島原の乱に懲りて、キリスト教の信仰を禁じ、鎖国令が発令されました。
 太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず
 ペリーが4隻の軍艦を率いて来航するまで日本は200年間眠り続けている間、西洋では宗教改革、ルネッサンス、大航海時代、フランス革命、産業革命等を経て大きく変わりました。そんな戦いいやしいわ1841阿片戦争で清国は英国に滅ぼされました。黒船来航、尊皇攘夷、安政の大獄、桜田門外の変、薩長連合、倒幕、江戸無血開城を経て明治維新で夜明けとなりました。うやむや1868のうちに明治元年
 米国は日本と日米通商和親条約を結んだものの、南北戦争後の混乱で日本侵略はなりませんでした。欧米諸国との国交が始まり、清のように滅ぼされないよう、西洋文明を採り入れ富国強兵政策により着々と歩み始めました。欧米列強諸国は植民地を保持し潤っておりました。日本も遅ればせながら朝鮮、中国を攻め、1838年、日露戦争に勝利して国威は高揚しました。
 しかし、ここで踏み留まって国の方針を定めていれば世界の歴史は大きく変っていたかも知れません。歴史に「若し」はありませんが、ここで家康に学んでいれば、と思います。
 秀吉は晩年、文禄・慶長の役で朝鮮を攻め多大な迷惑をかけましたが、江戸幕府を開くと家康はこれを反省し、1607―1811年の間、12回、朝鮮から通信使を招いて国内を案内し歓待の限りをつくしました。招待者は300人―500人居りました。1639年鎖国令が発令された後も8回実施されました。
 「勝って兜の緒を締めよ」という諺もあります。家康の願いも空しく、明治維新後、40年にして日清戦争、日露戦争を起し、その40年後太平洋戦争を起し敗れました。
 若し為政者が知恵を結集し、鎖国をしないで平和を保つ術を考えて実行していればと思うと残念でなりません。
 ここで敬愛している天川淳氏の年賀状に下記のコメントがあったのを思い出しました。
 「戦後70年にして、憲法違反とされた定数を是正しないで当選した議員が憲法を改正し日本を戦争が出来る国に変えようとしています」
 時代は下って、2013年、東京は石原氏の後任猪瀬都知事の下、2020オリンピック・パラリンピックの招致が決定しました。しかし、東京五輪の開催期間は1ヶ月余りで、遠い将来に向かう通過点であることが改めて認識されました。東京は湾岸、品川、渋谷、新宿、虎ノ門・六本木、大丸有の6つの地域が核となって開発が進んでおります。そのうち最も大きな成長が見込まれるのは、五輪施設、選手村、築地市場の移転先を擁する湾岸地域とリニア新幹線の発着駅ができる品川地域であります。
 ところがここで大きな問題が内蔵しております。東京に一極集中が進む一方、地方都市の周辺は限界集落と云って高齢化と人口減少により65歳以上の人が50%以上を占める地域が増えております。これらの地域をいくつか有機的に結合して再生しようという動きもあります。安部政権の政策の目玉の1つに地方創生があります。
 東京・地方・中央政府の関係は地方から人材が東京に供給され、東京は労働力を使って大きな利益を上げ、中央政府から交付金、補助金などが地方に分配される、というものでありました。しかしこの構造はバブル経済まではうまく機能しておりましたが、バブル崩壊以降は機能せずに、国は赤字国債を乱発して大きな借金を作ってしまいました。
 高齢化、人口減少は国としてもはじめての経験であり、解決するには政治だけでなく、全国民が知恵を出して考えなければならないことでありましょう。

 

 


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