東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(117)

江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎

 前月号で述べた「東海道ネットワークの会」例会が9月26日、静岡で行われました。折しも、家康公没後400年祭と銘打って、駿府城中心にイベントが開かれております。20名の会員が10時に駅に集合、南口に出て、大正4年(1915)家康没後300年を記念して静岡市民が久能山東照宮造営300年時に建てた搭が交通事情により移設されており説明を受けました。北口駅前にまわりますと、少年期の家康像が派手な衣裳を纏って出迎えてくれます。
 家康は1542年、岡崎城で生まれ、6才〜14才まで今川家の人質として駿府で過ごしました。1586年、45才のとき、浜松城から駿府城に移り、小田原征伐後、江戸に移封されるまで約5年壮年期を過ごしました。その後、秀忠に将軍の位を譲り、大御所として亡くなるまで9年間駿府城に居りました。
 家康は駿府では幼年期、壮年期、老年期と3つの顔を持って居りました。
 今日の案内人はベテランガイドの原田一史氏です。参加者は20名、前会長の秋庭氏は奥様が健康を害して介護の為来られず、十返舎一九の御高説を聞くことは叶いませんでした。
 宝台院には2代将軍秀忠の生母、西郷局が眠っております。最後の将軍慶喜は慶応4年〜明治2年までこの寺で謹慎しておりました。
 西郷局のお墓の脇には駿府城から移された古田織部作のキリシタン灯籠があります。慶喜が謹慎後20年暮らした屋敷跡はホテル浮月楼になっており、平安神宮の庭を造った小川治兵衛が改修した名園が有名で、今でも見物客が絶えませんが、今日は婚礼が2件あり、中まで入ることは出来ませんでした。それでも半田市から来られた会員が夢中で眺めていて、我々の列に遅れ、旧東海道の処で連絡が来て追い付き、事無きを得ました。十返舎一九生家跡が繁華街の中にあります。一九は町奉行同心重田与八郎の子で両替町1丁目で生まれました。
 38才で『東海道中膝栗毛』を刊行、当時の庶民に大評判でベストセラー作家となりました。駿府城の外堀まで行きますと彌次北の像があります。十返舎一九の会で出版した古文調現代訳を見ますと、江尻宿を馬で通った後は、伝馬町で宿を借り、知り合いの人の家で金を借りて安倍川町の遊郭にしけ込む、という設定になって居り、駿府城に寄った形跡は全くありません。当時の庶民は恐れ多くてお城には近寄れなかったのではないでしょうか。
 東御門橋を渡り、いよいよ駿府城に入ります。原田一史さんのガイドは素晴らしい。入ってすぐ桝形があります。桝形とは四角い地形のことで、敵に攻められた際、兵力を隠しておく処であったことが通説ですが、他に兵力(人数)を計るという意味もあったようです。
 城内は将兵がいて武芸を披露したり、到る処でイベントが行なわれ、見物客も多勢入って賑っています。
 葵の紋を草で型取った植え込みの説明で、徳川三代の紋、御三家の紋、他夫々微妙に違うそうです。徳川家の紋はどこか未完成な個所があって、常に改善されて来たようです。これは世の中に完全なものはない、という徳川家の思想によります。小学校の修学旅行で、日光の陽明門で説明を受けたとき、8本の柱のうち1本の模様が逆様についているのは、徳川家の戒めの思想による、と教えられましたが、流石に原田氏も、陽明門の柱について触れておられました。
 家康お手植えのみかんの木は、今もなお健在で青い実が成っておりました。駅前で見た家康の鷹狩り姿の大きな像もあります。
 直径1m位の大きな風船が50個程置いてあり、暗くなると鎖を解かれて天高く舞い上り、中に照明が仕込まれていて、美しい色彩が見事であるそうですが、4、5名の女性会員が、解散後暗くなるまで待って見てお帰りになったようです。
 駿府城に1日居ても楽しめるのでしょうが、昼食、午後の行程もありますので、北門橋から退城しますと城北公園があります。旧制静岡高校があった処で、中曽根康弘氏、吉行淳之介氏はじめ多くの英才が輩出されました。
 昼食は浅間通り沿いの老舗「うおかね」でいただき、一息つく暇もなく、午後の目玉、浅間神社に向かいます。途中、山田長政の胸像があります。長政は家康が駿府城に在城していた頃タイへ渡り、内乱の平定や外征で武勲を上げました。浅間通りの出身でありました。
 浅間神社は、名ガイドが静岡で最も素晴らしい処、と折り紙を付けるだけのことはあります。家康はここで元服を果たしました。三代家光は大造営を行い、貝原益軒は「日本いて神社の華麗なること、日光を第一とし、浅間を第二とする」と評したそうです。

 
駿府城坤櫓:城の南西にあり攻守の要(武器庫でもあった)

 現在の社殿は文化2年から慶応2年に再建されたものが主体で26棟の社殿が重文に指定されております。楼門の龍の彫り物は左甚五郎の作。舞殿と大拝殿の彫り物は諏訪大社秋宮と同じ立川流和四郎富棟と子富昌の作。背後の神部神社と浅間神社は朱塗りの極彩色の建物で「浅間造り」を代表する建物です。
 隣接している静岡文化財資料館で浅間神社にまつわる宝物、書画、絵図、山田長政公奉納船艦図写等を見せてもらった後、中村正直の筆による扁額「草屋山」で有名な富春院の前を通り、最後の名所は賤機山の中腹にある臨済寺です。本堂と方丈は重文、人質時代の竹千代はここで名僧雪斉の教えを受けて育ちました。石段が100段程あり急勾配に怯み、脇の女坂から昇りました。後で送ってもらった写真を見ますと、3名足りません。最長老の会長(88才)と女丈夫、土山治子氏(85才)は流石に大事を取り、下で待機されておりました。
 決して無理をしないことが長命の秘訣と知りました。下山して徒歩数分の位置にバス停があって、190円で全員救済を受け、約6kmの行程を約3時間半で、学び、楽しみ、頑張って歩き、無事定刻の16時に静岡駅に着きました。
 次回は趣向を変えて、有明で進行中のまちづくりの仲間在の社殿は文化2年から慶応2年に再建されたものが主体で26棟の社殿が重文に指定されておりと行く沖縄視察について探訪します。

 
浅間神社:家康の元服はここで果たした
  臨済寺:家康は人質時代にここで学んだ

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