東京木材問屋協同組合


文苑 随想
「見たり、聞いたり、探ったり」 No.199

〜歴史探訪 一人旅〜
九重親方「千代の富士」の思い出
青木行雄


※在りし日のツーショット。九重親方である。
 大相撲で歴代3位の31回の優勝を遂げ、「ウルフ」の愛称で人気を集めた元「千代の富士」・九重親方が、平成28年7月31日に都内の病院で永眠した。
 都内では都知事選の日にあたり、小池百合子氏(64歳)が初当選し、女性初の都知事誕生。何かと都内では騒々しい日に静かに息を引き取ったのである。
 現在、佐ノ山親方になっている現役時代、大関「千代大海」であった彼は九重部屋で大分県出身だったので、何度か励ます会に出席した事があった。
 千代の富士は口数は少なく、まじめそうであり、頼み事は気軽に応対してくれた。その時友人であった、王貞治さんも参加しており、気軽に話が出来た事を今懐かしく思い出している。

 千代の富士のプロフィール
 1955年(昭和30年)に北海道松前郡福島町で漁師の家に生まれた。子供の頃から家業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生の時は運動神経が他の男子より抜群だったと言う。特に陸上競技では走り高跳び・3段跳びの地方大会では優勝し、オリンピック選手でもいけると言われたほどだったと言うが、相撲は大嫌いだったらしい。1年生のときに盲腸炎の手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって長時間の手術となり、麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐える体格の良い秋元少年を見た病院長が人を通して千代の山の入門の世話をしたが、自身もあまり気が乗らず、また両親も入門に大反対したらしい。その後一旦は中断したが結局九重(千代の山)の度重なる誘いに入門することになる。

 1970年(昭和45年)9月場所で初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名。1971年(昭和46年)1月場所「千代の冨士」(1975年(昭和50年)1月場所より「千代の富士」)と名付けられた。四股名の由来は九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られたと言う。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。相撲に馴染めない日々もあり、高校に進学し、学業と相撲の両立を図ったが、結局学校は退学し相撲に専念することになる。
 小柄ながら気性の激しい取り口で順調に出世し、1974年(昭和49年)11月場所、19歳5ヶ月で十両に昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚を捌いているところを見た九重親方が「狼みたいだな」と言ったことから付けられた。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか「ウルフ」と変化したようである。
 左肩の脱臼等で苦節10年ほどかかったが、一気にアイドル的に人気を博したのは1981年(昭和56年)の1年の間に関脇、大関、横綱の3つの階級で優勝するという偉業を成し遂げ、「ウルフフィーバー」を巻き起こしたからである。
 30代に入ってから、ウルフの真の黄金時代がやって来た。東京両国の新国技館のこけら落としとなった1985年(昭和60年)の30歳の誕生日以降、1991年(平成3年)の引退までに重ねた優勝は19回、昭和の大横綱の先輩である大鵬ですら30歳になってからの優勝は1回で、まさに大器晩成型の横綱だったのである。

※現、両国国技館、JR両国駅側より写した写真である。

※現場所中にあるのぼり、やぐら太鼓が響き渡り、いつでも昔のおもかげが味わえる。

※国技館表玄関の黒ざかり、最近は場所中満員御礼の日が多い。

※国技館の中の様子。


※現役時代の「千代の富士」の雄姿。
 優勝31回は(平成28年8月現在)白鵬37回、大鵬32回に続く歴代3位。53連勝は昭和以降3位で通算、1,045勝は史上2位であり、数々の記録を打ち立てている。1991年(平成3年)5月夏場所初日に18歳の貴花田(現貴乃花親方)に敗れたのを機に現役引退を決意し、3日目に表明したと言う。当時35歳だった。「体力の限界、気力もなくなった」という言葉とともに貴花田に敗れた一番は、当時世代交代を強く感じさせた一番だったのである。

千代の富士の歩み

1970年(昭和45年) 当時の九重親方(元横綱千代の山)にスカウトされ上京 初土俵
1974年(昭和49年) 十両昇進
1975年(昭和50年) 新入幕
1981年(昭和56年) 関脇の時に横綱・北の湖を優勝決定戦で破り初優勝
大関に昇進して、2度目の優勝、26歳で58代横綱になる
1988年(昭和63年) 当時歴代2位の53連勝
1989年(平成元年) 大相撲界で初の国民栄誉賞を受賞
1990年(平成2年) 当時歴代2位の31回目の優勝
1991年(平成3年) 左腕を痛め、初場所途中から休場、復帰した夏場所初日、当時18歳の貴花田に敗れる 2日後に「体力の限界」と引退を発表
1992年(平成4年) 九重部屋を継承
 
2016年(平成28年) 7月31日 永眠

※通算勝利数 ★は現役 平成28年8月1日現在

@魁 皇 1,047回
A千代の富士 1,045回
B白 鵬★ 997回
C大 潮 964回
D北の湖 951回
E旭天鵬 927回
F若の里 914回
G大 鵬 872回
H寺 尾 860回
I安芸乃島 822回

※歴代の優勝回数 ★は現役 平成28年8月1日現在

@白 鵬★ 37回
A大 鵬 32回
B千代の富士 31回
C朝青龍 25回
D北の湖 24回
E貴乃花 22回
F輪 島 14回
G双葉山 12回
〃武蔵丸  12回
I曙 11回

 1991年(平成3年)に体力の限界と言って引退し1992年(平成4年)に九重部屋を継承してから今年で24年間、九重親方として部屋を守って来た。
 九重親方の出身地、北海道松前郡福島町には「横綱千代の山・千代の富士記念館」があり、姉の佐登子さんがガイドを務めていると言う。

 千代の富士の歩みでもわかるように、一気にアイドル的な人気を博したのは入門してから10年が過ぎた頃から、1981年(昭和56年)1年の間に関脇、大関、横綱の3つの階級で優勝するという偉業を成し遂げ、たちまち人気が盛り上がって行った。そして「ウルフフィーバー」が巻き起こったのである。
 昭和の大横綱の先輩である大鵬ですら30歳になってからの優勝はたったの1回だけの所、ウルフ千代の富士は、両国国技館のこけら落としとなった、1985年(昭和60年)30歳の誕生日以降、引退までに重ねた優勝は19回、まさに大器晩成型の大横綱であったのである。身長183cm、体重126kg、愛称ウルフ、小さな大横綱、小さくても最強だった。一時代を風靡した、スピードと気迫、大型力士を撃破する鍛え抜かれた肉体で正面から攻め抜き、ファンを魅了した。
 現役時代は角界の第1人者としての存在を存分に発揮し、親方としては相撲協会のトップの座に座ることはなかった。
 そして平成28年8月7日東京都墨田区の九重部屋で葬儀・告別式が営まれた。角界関係者ら約1,000人が参列した。親方が大好きだったカトレヤの花が棺に添えられ、元大関・千代大海・新九重親方が「師匠から教わった相撲道を我々弟子たちが体全体に焼き付け、一生忘れずにこれからも守っていきます」と挨拶したと言う。

 ウルフと言われ、一時代に旋風を巻き起こした「千代の富士」九重親方、(秋元貢)享年61歳は早すぎるお別れであった。

参考資料
朝日新聞 平成28年8月1日号
日本経済新聞 平成28年8月1日号
スポーツニッポン新聞 平成28年8月8日号

平成28年8月14日記


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