東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「見たり、聞いたり、探ったり」 No.201

通算No.353
「三笠宮さま、百歳 逝去」
青木行雄

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父にあたる「三笠宮崇仁さま」が平成28年10月27日午前8時34分、東京都中央区聖路加国際病院で亡くなられた。死因は心不全と言う。急性肺炎のために今年の5月から入院していた。6月の中旬に心機能が低下したが最近は血圧も安定し、ベッドの上で手足を動かすなどリハビリをしていたと言う。そして肺に水が溜まるなどして、何度か危機的な状況もあったらしい。今月10月22日にはご結婚から75周年を迎え、病室は看護師たちによって飾り付けがされ、百合子さまや娘さま方が病室に集まってお祝いをされたと言う。百合子さまも検査のため同病院に入院していた。
 三笠宮さまは平成15年12月2日に100歳の百寿を迎えた。宮内庁によると、皇室方で100歳は他にいらっしゃらないようである。
 三笠宮さまは最近、状態が安定していたようだが、10月27日午前7時40分頃から心臓の拍動が徐々に遅くなり、同8時頃に心停止となったと言う。急変といえる。お亡くなりになる間際は妻の百合子さま(93)が付き添われた。

 三笠宮さまの皇位継承順位は5位だった。三笠宮さまは子供達の方が先に早く逝去され、ご心痛はいかほどかと察しますが、2002年(平成14年)11月に三男の高円宮憲仁さまが47歳で、2012年(平成24年)6月に長男、寛仁さまが66歳でお亡くなり、2014年(平成26年)6月に次男の桂宮宜仁さまが66歳でお亡くなり、男性のお子さまは全員鬼籍に入っている。
 皇位継承権のある男子皇族は、皇太子さま、秋篠宮さま、悠仁さま、常陸宮さまの4人となった。

※在りし日のにこやかな顔の三笠宮さま。
「日本経済新聞」より 宮内庁提供

※夫人と語らう三笠宮さま。
「朝日新聞」より 宮内庁提供

 三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日、大正天皇の四男としてお生まれになった。幼少時の称号は「澄宮」と言う。学習院初・中等科を経て、1934年(昭和9年)士官候補生として習志野騎兵第15連隊に入隊。
 1935年(昭和10年)12月2日成年式、三笠宮家を創立、その年陸軍大学をご卒業。
 1941年(昭和16年)10月22日、故高木正得子爵の次女百合子さまと結婚、時局柄、儀式は簡略にされたと言う。
 戦時中は、支那派遣軍参謀、大本営陸軍参謀などを歴任。中国での日本軍の規律の乱れや残虐行為への反省を促す声を軍内部であげるなど、毅然とした姿勢を貫いていたことが戦後に明らかになっている。
 「軍は歴史の研究が不十分だったのではないか」との思いから、戦後は西欧史、そして古代オリエント史へと歴史研究を志し、1947年(昭和22年)から3年間、東京帝国大学文学部研究生としてヘブライ史を学んだ。1954年(昭和29年)に日本オリエント学会設立に参加して会長に。1975年(昭和50年)には中近東文化センター設立に加わり総裁を務めた。東京女子大学、青山学院大学などの講師、東京芸術大学美術学部客員教授として教壇に立ったと言う。テレビ、ラジオの市民講座にも出演し率直な発言と気さくな人柄で親しまれた。
 日本・トルコ協会名誉総裁としてトルコを訪れて遺跡を調査。カマン・カレホユック遺跡発掘調査などの支援に力を尽くした。
 1991年(平成3年)11月にはフランス学士院「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に選ばれた。1994年(平成6年)6月にはロンドン大学の「東洋・アフリカ研究学院」の名誉会員にもなったと言う。
 また、フォークダンスや社交ダンスに親しみ、気軽に各地に出掛け、ダンスなどされたようだ。昔、江東区の深川高校に来られて、ダンスを楽しんだと言う。

 戦後、2月11日が「神武天皇即位の日」として戦前の「紀元節」を祝日として復活させようとする動きに対し、三笠宮さまは歴史学者の立場から「歴史的根拠がない」と1956年(昭和31年)頃から学者の会合や論文で反対を表明していた事も有名になった。

 また、戦後間もない頃に昭和天皇の生前退位や女帝を容認する意見も表明したと書かれている。建国記念日などの意見も含めて、歴史学者らしい合理的な考え方を持たれていた。

 1941年(昭和16年)、百合子さまとご結婚され、寛仁さま、桂宮宣仁さま、高円宮憲仁さま、近衛忠氏・日本赤十字社長夫人の長女月qさん、千宗室氏夫人の次女容子さんの3男2女に恵まれた。
 日本赤十字社長になられた「近衛忠」社長は奈良の「春日大社」名誉顧問で年2回程お会いする機会があって、同席する夫人の月qさんにもお会いした。大変上品で格式が漂っている。
 そんな事から、28日から「記帳」受け付けが始まるとの新聞記事を見て行って来ました。

※赤坂御用地、南門入口、赤坂通りより入る。

※南門入口で、手荷物チェックを受ける。

※奥のテント小屋が、記帳場所。私服の警察官が立合う。

※三笠宮さま邸。静かな佇まいである。

 「宮内庁は、三笠宮さまが亡くなられたため、28日から一般の弔問記帳を受け付ける。場所は、赤坂御用地(東京・元赤坂)の三笠宮邸内に設置された仮設テント。受付時間は午前9時から午後7時まで。記帳者は徒歩で、南門から入る」と記されていた。

 29日(土)、午後南門から記帳に参上した。入口で手荷物のチェックを受け、ポールで制限された道を2〜3分歩くと、仮説テントがあって記帳台が用意されていた。一般警察と宮内庁警察が多勢警備していた。御用地の中は木が茂り、静寂な中に邸宅があった。写真の許可をもらって撮影した。この家が三笠宮邸である。

 三笠宮さま逝去で安倍首相が謹話

 三笠宮崇仁さまが亡くなられたことを受け「ご訃報に接し、悲しみの念に堪えません。皇室をはじめご近親の方々の深いお悲しみを拝察申し上げ、国民と共に慎んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。
 首相は、三笠宮さまが国際親善やスポーツ、福祉など幅広い分野で重要な役割を果たされたことにも触れ、「殿下は、昭和時代からの長きに渡り、御兄君昭和天皇及び今上陛下を助けられ、国の平和と国民の福祉のために貢献してこられました」と功績をたたえられました。

 平成28年10月29日(土)午後3時 記帳を済ませる。
 「慎んで心から哀悼の意を表します」

参考資料
「日本経済新聞」(平成28年10月28日号)
「朝日新聞」(平成28年10月28日号)

平成28年10月30日記


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