東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(121)

江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎

 先日、東海道ネットワークの会(21)から例会の案内が届きました。前回の駿府宿に続いて岡崎宿に家康公の生涯を辿る、記念すべき第50回例会です。第1回例会は、平成14年5月25日、「新緑の宇津ノ谷峠を歩こう」と云うテーマでありました。私は欠席しましたが、『伊勢物語』で知られる蔦の細道を行きました。あれから14年いろいろなことがありました。会長の秋庭さんは健康上の理由で退任、学者肌の四ノ宮さんは高齢のため病臥、NHK出身の伊藤澄夫理事はいつも笑顔を絶やさない好人物でしたがご逝去、土山宿の鵜飼理事は脱会、迎理事はご逝去、初代事務局長の秋山民野女史は退会、博学でいつも御指導賜っていた飛沢久治さんは病臥。
 長老の浜野文夫さんは、昨年、日本一分厚い年賀状と称して、名著『味の旅第9巻』を送って下さいました。現事務局長の杉井さんは、記念誌に人柄がにじみ出るような名文を寄稿されました。以前の例会で私が自分の不注意から迷子になった時、食事も摂らずに懸命に探して下さいました。
 「五万石でも岡崎さまは城の下まで船が着く」これは昔習った懐かしい小唄の文句です。これを口ずさむと、当時の岡崎宿の賑わいが眼に浮かぶ思いが致します。三河安城駅に集合して、1日かけて家康ゆかりの名所を訪ねます。ところが、実施日が平成28年2月20日で今回の「月報」(2月10日提出)に間に合いません。急遽、今回は今年始まったばかりのNHK大河ドラマ『真田丸』の進行を予測し、月刊誌『歴史街道』の特集記事等と首っ引きで、真田幸隆・昌幸・信繁三代が活躍した戦国末期から大坂夏の陣までを歴史探訪します。
 信州小県(現在の上田市周辺)の真田氏が甲斐の武田信玄に臣従するのは信繁の祖父幸隆の代でありました。幸隆は信玄の父信虎によって小県を奪われて流浪しておりましたが、信虎を追放した息子信玄に仕えて旧領回復の悲願を実現しました。武田氏の躍進を智謀で助けた幸隆は信玄から重用され、息子達も武田氏に仕えます。幸隆の三男昌幸(信繁の父)は「表理比興の者」(変わり身が早く油断できない)と云われておりましたが、小勢力が大勢力に呑みこまれずに生き残る為には、手段を選ばず智謀を用いなければ叶わない時代でありました。
 武田信玄は上杉謙信と川中島で5度交戦し、決着はつきませんでした。第四次川中島の合戦が昌幸の初陣でありました。信玄を助け、武田の副将にして信玄の弟、典厩信繁は、第四次川中島合戦で信玄を守って討死しました。後世「まことの武将」と称えられた典厩の姿に武将としての理想像を見出し、昌幸は己の次男に信繁と名付けたのではないかと云われております。典厩の死から6年後1567(永禄10)年のことでありました。
 武田信玄は都に風林火山の幟を林立させようと、上洛を志し、途中三方ケ原で徳川軍に大勝しました。(1572年)命辛々浜松城に逃げ込んだ家康は、直ちに絵師を呼んで困憊した己の姿を描かせ、後の戒めとします。
 上洛途上、信玄は陣中で没します。(1573年)信玄は自分の死を3年間秘匿せよと云い残しますが、この頃から武田家は衰退を始めます。
 高天神城の戦いで、武田氏は徳川方に敗れ、1575年長篠の戦では鉄砲を三段構えにした織田徳川連合軍に敗れます。1582年、勝頼は自刃、武田氏は滅亡します。
 変わり身の早い昌幸は、徳川につこうか、上杉につこうか、さんざん迷った挙句、織田信長を頼ります。同年本能寺の変で信長は急死、急遽昌幸は北条、徳川と結びます。
 1583年、真田氏は上田城の築城を開始、信州小県郡を統一しました。(1584年)
 1585年、昌幸は徳川を離れて上杉景勝と結び、信繁を上杉家へ人質に出し、このとき信繁は直江兼続と邂逅しました。
 上田城では神川合戦があり、真田氏は徳川の大軍を撃退しました。1586年、信繁は人質として大坂の豊臣家へ、この時石田三成、大谷吉継と邂逅、後に(1594年)大谷吉継の娘を正妻に迎えました。
 1589年、一方、信之は徳川家へ出仕、徳川家の養女(本田忠勝の娘)を正妻に娶りました。
 1598年、秀吉63才で逝去します。
 1600年、関ヶ原の戦目前に、昌幸、信繁は西軍に、信之は東軍につきます。
 上田城では関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍を昌幸、信繁親子が撃退し、秀忠は関ヶ原の戦に遅参しました。
 関ヶ原の戦は東軍の勝利に終わり、信之は昌幸、信繁の助命嘆願を家康に対して行い、父子は許されて紀州高野山麓九度山に配流されます。1611年、昌幸は九度山で65才で没しました。
 1614年、大坂冬の陣で、信繁は豊臣方から乞われて大坂城に入ります。信繁は真田丸を築き、徳川勢を圧倒しました。
 翌年の夏の陣で、真田信繁は家康の本陣に突撃し、家康を自刃寸前まで追い詰めましたが、あと一歩のところで討死しました。
 真田家は信之によって存続し幕末まで続きました。
 一方、信繁は華々しく散りましたが、その武名は高く讃えられ、『真田太平記』は軍記物として、又、真田十勇士には猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道等架空の人物も登場し、少年読者達が血湧き肉踊る痛快な読み物として現代も愛読されております。
 以上、真田氏が戦国の世を強かに生き抜いた時代の中で、私が実際に行って見た戦跡を年代順に述べますと
 @一昨年、東海道ネットワークの会で見学した浜松城では、1572年、三方ケ原の戦で命辛々逃げた家康の困憊した姿を絵はがきにしてお土産に売られておりました。
 A1581年、高天神城の戦がありました。平成18年東海道ネットワークの会例会で行き、秋庭会長に案内して頂きました。新田次郎氏が小説『武田信玄』の中でドラマチックに著しております。秋庭会長はこれぞ作家の心を揺さぶる劇的な戦であった、と説明されました。後日小説を買って読みましたが、徳川軍は兵糧攻めで武田方を追い詰め、武田勢は城の土壁を削って、壁を強化する為に入れた「すさ」と云うわらまで煮て飢えを凌ぎました。徳川方の寄せ手の中に神楽の踊りの名手が居り、武田方から滅びる前に名人の踊りを一さし舞って見せてもらえないかとの要望がありました。名人は総攻撃の前夜、得意の舞を披露し、武田方は大いに喜び翌日散って果てました。
 B私が甲州街道を歩いていた折、平成11年6月27日、韮崎から甲府へ向かう途中、泣き石といって、高さ3.8m、巾2.7m、奥行3.7mの大きな石に出会いました。元は100米程南東にありましたが、鉄道工事により現在地に移されました。1582(天正10)年、3月2日、高遠城が落城すると勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向け落ちのびて行きました。途中、勝頼夫人は燃える韮崎城を振り返って涙したと伝えられ、大きな石も武田氏の滅亡を涙で濡らして悲しんだように見えました。しかし水脈は鉄道工事による移転で断たれてしまいました。
 C1600年、関ヶ原の戦があり、中山道中で寄ったとき、たまたま合戦のあった9月15日で、駅前は多くの人で賑っておりました。白いテントが二張あり、イベントが開催され、「関ヶ原さわやかウォーク」と銘打って、いくつかの戦跡を巡って戻って来ると飲み物のサービスが受けられます。私は、幾万人もの兵士が亡くなった跡を歩いて、果たしてさわやかになれるものか、と思い、この企画には乗りませんでした。
 以上、歴史探訪して参りましたが、未だ真田氏が関わった戦跡には行ったことがありません。若し、第一次上田合戦(神川合戦)、第二次上田合戦があった上田城周辺を訪ねれば、小勢で大軍を撃退した戦跡を目の当たりにし、真田父子の活躍を偲ぶことが出来、毎週の大河ドラマを一層、熱を入れて見る事が出来るのではないかと思います。

上田城本丸南櫓と東虎口櫓門
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

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