東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(124)

江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎

 4月14日、午後9時、熊本で発生した地震は、1ヶ月近く経っても一向に終息せず日本中を不安に陥れております。
 今年は阪神淡路大震災(1995年1月17日)から20年、東日本大震災(2011年3月11日)から5年に当ります。他に中越地震もありましたが、熊本地震は過去3つの地震と全く様相が異なり、専門家の先生方も予測出来なかったようです。
 私の大学時代の同級生に、地震学の大家、河角博士の息子さんが居りました。河角博士は「関東大震災69年周期説」を唱えました。大正12(1923)年9月1日ですから、前後10年の幅を考えますと、1982―2002年に相当しますが、関東地方にはその間に大地震はありませんでした。阪神淡路大震災は関東大震災の73年後に当ります。
 当社では阪神淡路大震災を契機として、地震に強い家の提案をすべく、研究開発を進めて参りましたが、2000年に「GHハイブリッド制震工法」を開発し、日立製作所と共同特許も取得しました。
 静岡県では東海地震を警戒して「トーカイゼロプロジェクト2000」と銘打って全国から耐震工法を募集して居りました。応募致しましたら、250の企業と個人の中からベスト8に選出されました。イベント等で県民の方が当社に発注されますと、県から補助金が交付される制度も創設されました。県内で3社に代理店になって頂き、かなり実績も積み上げ、リフォーム部門では地域No.1となりました。
 東日本大震災のあった2011年3月には、シミュレーションと云って、顧客が御自宅のプランを持参されてサービスで耐震診断を行ないますが、申し込み件数が前年比+80%となりました。この機会に、工法もHiダイナミック工法と改めて強化し、全国展開をはかることになりました。当社の社員が往復日帰りで行ける地域は代理店に対応してもらい、それ以遠は、横綱白鵬関にお出まし頂いてPRする住友林業ホームテックと提携しております。熊本県でも7棟のリフォームを実施しましたが、調査の結果、全棟震度7の揺れにも耐えることが証明されました。
 今回は災害について探訪します。
 私は1959年、早大理工学部土木工学科に入学しました。面接で教授に志望動機を訊かれ、「自分は災害に弱い日本の国土を強化する職業に就き度い」と答えました。同年9月26日、伊勢湾台風が和歌山県に上陸し、名古屋地方を襲いました。低気圧と高潮で、奥へ行く程狭くなる伊勢湾には多くの丸太が貯木されておりましたが、それらが市内に乱入して家屋を破壊し5,000名の尊い人命が失われました。1963年に卒業しました。卒業論文は河川工学で、「利根川水系と流域の雨量を天気予報等で予測し、栗橋に於ける流量を毎秒1万m2を超えないよう、予め上流のダム群から、下流や遊水池へ放流して備え、洪水を未然に防ぐ手法を考案する」という理論でありました。雨量計からロボットで発信する機械も考えましたが、それは富士山頂測候所の所長で後に作家となって活躍した新田次郎氏が発明したことを後で知りました。
 大学卒業後、某ゼネコンに入社しました。建設業界は翌年の東京五輪を控え、大童でありました。東海道新幹線は東京〜大阪間開通、東名、名神高速道路は名古屋〜神戸間開通、首都高速は羽田〜初台間が開通しておりました。
 1964年10月10日、東京五輪は快晴の秋空の下、自衛隊機が描く五色の輪の下で開会式が行なわれました。敗戦後20年足らずで復興を遂げた東京を世界に向けて発信する又とない機会となり、普及して間もないカラーテレビに国民は釘づけとなり、平和の喜びを堪能したことでありましょう。競技では、エチオピアから来た跣の王者アベベのローマ、東京2連覇、鬼の大松率いる東洋の魔女たちの悲願の金メダル、お家芸と云われた柔道でヘーシンクに敗れた神永…等が圧巻でありました。
 五輪を契機に高度成長はどこまでも続くものと国民は信じて疑いませんでした。私は東京から静岡に転勤し、東名高速道路の現場を花道にゼネコンを退社し、現在の会社にご縁があって入社しました。当時会社のあった深川はゼロメートル地帯で600以上の企業が立地しておりました。1959年、伊勢湾台風を機に新木場移転の機運が盛り上がり、1970年、移転計画が策定されました。
 私が深川に来る2年前、1963年1月24日、江東区の三ツ目通りでガス爆発がありました。重量車が走り、弱り始めた路盤が沈下し、大口径のガス管の継ぎ目がずれてガスが漏れ、早起きの人がお湯を沸かそうとして湯沸かし器に点火した火花が引火して、大爆発が起こり70 mが火の海と化し、死者6名、30ヶ所でマンホールの蓋が飛び17棟の家屋が全半焼するという大惨事となりました。私は江東区は怖い処だと云う先入観がありました。しかし来てみると、住んでいる人、働いている人の心は意外に温かいということを知りました。それは江戸時代から引き継がれ培われた伝統でしょうか。厳しい環境の下で暮らして行くには弱い者同士が助け合って行かねばならない、という互助の精神が根付いているのではないでしょうか。当時、私は車で通勤しておりましたが、ある日、前の晩かなり雪が降りましたので、車は動けず、地下鉄東西線木場で降りてバスに乗りました。
 ところがバスが途中で出水の為通れず、三ツ目通りから大きく迂回し、ようやく会社に辿り着きますと、事務所の中は水浸しになっていました。後で訊きますと、満潮のとき水門を閉める役を担っていたおじさんが、突然の雪で雪見酒としゃれこんで、寝てしまい、水門を閉め忘れた為と判りました。倉庫内の製品は濡れて損害を蒙りましたが、そんなことも許せるようなのどかな気風がありました。
 第一次移転は1975年に始まり、移転完了は1982年、629の企業、約1万人の従業員が新天地に移転して参りました。陸の孤島であった新木場に湾岸道路が開通し、鉄道はJR京葉線、地下鉄有楽町線、りんかい線が開通し、交通の要衝となりました。
 深川は地盛りされ、防災拠点を兼ねた公園になりました。
 新木場には48万m2(15万坪)の水面貯木場が整備され、伊勢湾台風時のように丸太が流出して大惨事を招く心配は不要となりました。移転が完了した1982年には、高度成長はピークを過ぎ、1972年、190万戸、1973年、170万戸あった住宅着工戸数は1974年、126万戸となり2度のオイルショックで大幅に下がり、姉歯事件の翌年、100万戸を割りました。輸入丸太の扱いは産出国の輸出制限等で減り、輸入木材製品が取って代わりました。今では水面貯木場は閑古鳥状態で野鳥が遊んでおります。
 昨年、異常気象により鬼怒川が決潰し、常総市が水没しました。荒川の堤防には弱い箇所があり、地震等で堀切の辺りが決潰しますと、荒川、墨田、江東区の200万戸の住宅が水没する心配があります。東日本大震災では200km離れている東京湾の埋立地で液状化現象により地盤沈下も起きました。
 今は、天災、人災を問わず、火山の噴火、原発の存続問題、北朝鮮の脅威、無差別テロ、伝染病、食中毒等日本列島は多くの恐怖に晒されております。
 ゴールデンウィークの間も、テレビをつければ、熊本地震の経過に終始し、合い間に行楽地の交通渋滞、自動車事故等を報道しておりました。
 2016年5月11日、『日刊木材新聞』によれば、熊本地震で死者66人、震度1以上1,200回、避難者20万人、住宅の被害5万棟以上と、これからも増えることでありましょう。1981年以降の新耐震基準後に建築された住宅でも、震度6弱以上の地震が複数回連続することを想定して居らず、倒壊した住宅が2〜3割ありました。
 当社はこの機会に、今までの経験を生かし、研鑽を重ね、平成4年、実施したCIで取り決めたスローガン「快適生活空間のクリエーター」の精神に則り社会貢献する所存であります。
 次回は、東海道ネットワークの会例会が、5月28日、「江戸城登城コースと幕末会席を楽しむ」とのテーマで開かれ、報告方々歴史探訪します。


前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2015