東京木材問屋協同組合


文苑 随想


「歴史探訪」PartU−@

江戸川木材工業株式会社
取締役 清水 太郎

 去る6月25日、上野精養軒で高校の同期会がありました。今年は喜寿を迎える人がかなり居り、喜寿記念と銘打って開かれました。
 昭和43年卒業時は306名居た仲間は、鬼籍に入った人76名、消息不明者11名を除いて219名が健在ですが、当日は75名出席で、この人数は毎年増えております。卒業以来初出席8名、10年振りに来た人も居り、賑やかな会となりました。目玉の講演会講師は同期の者が務める習わしになって居り、S氏が「日中文化交流の私の歴史」と云うテーマで始まりました。S氏とは同じ総武沿線に在住して居り、通学時登下校で一緒になり親しい間柄でありました。
 S氏が大卒後米留学で出会った女性が今の夫人で、彼女と私は小学校の同期生で、私の母が自宅で開いていた音楽教室の教え子でもありました。S夫人は小学3年生で、すでに憧れの存在で、不思議な縁に驚くばかりであります。
 S氏の祖父の代に興した運送業が父君の代で業容を拡げ、200台を擁するタクシー会社、観光バス、自動車教習所等を経営し、三代目がS氏で最近創業百周年を迎えました。
 S氏は社長就任後、夜の接待に熱心な余り身体をこわして、入院、大手術の後生還されましたが、一念発起で始めた骨董品蒐集が後に大きな価値が出て、事業経営、学校経営、父の代から引き継いだ宗教団体の屋台骨を支える原資となりました。主に中国の古美術が多かった為に今日のテーマ「日中文化交流」に貢献することになりましたが、素晴らしいS氏の業績に全員が驚嘆して聞き入ってしまいました。
 今回はお話の中から、S氏が寄贈した陶板画について歴史探訪します。
 「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」これは藤原定家(1162−1241)が『古今和歌集』『新古今和歌集』などから優れた歌百首を選んだ『小倉百人一首』の中の一首であります。作者は安倍仲麿(阿倍仲麻呂)(698−770)で、717年遣唐留学生として唐に渡り、勉学に勤しみ、難関の科挙に挑戦して合格し、玄宗皇帝の側近にまで昇りつめました。詩人の李白や王維と親交を結びました。件の陶板画には五言絶句の詩と仲麿、李白の姿があります。S氏の説明では、この五言絶句が日本に送られて来て、これを知った藤原定家が和歌に翻訳したのが「天の原……」の名歌であると解説されました。
 仲麿は唐土で優遇されましたが、それでも故国へ帰りたい、望郷の思いを歌に託したのが「天の原……」であるということがこれまでの私達の認識でありました。
 仲麿は三度帰国を試みてその都度嵐で難航して叶わず、最後は安南(ベトナム)に漂着して異国に骨を埋めることになりました。
 当時日中間の渡航が如何に厳しかったことか。
 中国の高僧、鑑真は請われて日本に仏教を普及するために渡航を試み、船が難破して失敗。三度目にようやく来日した時は失明しており(聖武天皇の御代)、それでも唐招提寺を建立、仏教の普及に貢献しました。
 このように、日本は中国を敬い、女王卑弥呼は後漢の時代(204)に朝貢し、唐の時代には遣唐使を送って中国の文明を熱心に採り入れました。
 数年前の「組合月報」で述べたことがありましたが、当社は地震に強い家を志向し、制震工法を研究開発して売り出そうとしている時、パートナー企業の日立製作所から派遣されて御指導賜った天川淳氏がある年、年賀状を送って下さいました。冒頭に「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の和歌がありました。当時は尖閣列島の領有のことで日中間に種々軋轢がありました。日本は中国に対し千年以上前から師と仰ぎ、親しく交流を深めていたのに……との意を察し、眼から鱗が落ちる思いで、以後天川氏を尊敬し指導を頂いておりました。
 S氏は日中間の交流を深める為に、何名かの小学生を現代の遣唐使として派遣し、逆に中国からも子供達を招いて日本国内を案内し将来の日中国交に努めました。詩の後半で放映されたビデオには、安倍首相を中国の要人に紹介し、国交の橋渡しをする姿も披露されました。
 私達は中国と問題が起きると、憲法改正だ、軍事包囲網だと思いがちですが、文化交流も二国間の蟠りを融解する方法であると、S氏の姿勢を見て感じ入った次第であります。


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