東京木材問屋協同組合


文苑 随想


「歴史探訪」PartU−(6)

江戸川木材工業株式会社
顧問 清水 太郎

 ら・ろんどの会のご縁で「能」について齧り始めました。今は亡き母が所蔵しており、形見にもらった『日本風俗史事典』を繙き、A4版千頁の大冊と格闘しました処、「能」は中世の代表的な舞台芸能で、現代も古典芸能として盛んに行われていることが解りました。南北朝時代がその興隆期で、これは大和観世世座の太夫、観阿弥、世阿弥という天才的な父子の力によるところが大きい。この2人によって猿楽能は歌舞と物まねを融合し本来の大衆的芸能性の上に幽玄味を加え、芸術性を高めることになりました。
 観阿弥の「松風」、世阿弥の「忠度」、「井筒」などの名作は古典の世界と現実の世界を交錯させ、人々を夢幻的な境地に誘い込みます。
 今回は観阿弥の「松風」、世阿弥の「忠度」について探訪します。
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる『平家物語』巻六に「小督」があります。粗筋は、主上(高倉天皇)は愛人、葵の前が亡くなっても恋い慕っておりましたが、お慰めしようとして、中宮より小督の殿と申す女房をお仕えさせました。この女房は禁中一の美人で琴の名手でもありました。他からも見初めて手紙を渡す人もおりましたが、歌を詠んで渡しても決して靡くことはありませんでした。
 入道相國(平清盛)がこれを聞いて召し出るよう働きかけました。小督の殿は、自分は主上を慕っていたのに清盛に云い寄られ、ある夜内裏から脱出して行方が知れなくなりました。主上は落胆して、仲國(弾正の大弼仲國 弾正台の次官、敦実親王のおとしだね源光遠の子)に探策し、連れ戻すよう命じました。仲國が馬を賜って亀山の辺りを巡っておりますと、松風が吹く向うから琴の音が聞こえて参りました。これは小督の殿が愛しい人を慕うという(「想夫恋」)を爪弾く音でありました。仲國が馬を駈って小督の殿を探す件が、「酒は飲め飲め飲むならば」で始まる「黒田節」の2番に謳われています。「峰の嵐か松風か訪ぬる人の琴の音か、駒ひき止めて立ち寄れば爪音高き想夫恋」この故事を知った観阿弥が「松風」を創作したのではないでしょうか。
 次に世阿弥作「忠度」について
 『平家物語』に(1)巻七「忠度の都落ち」 (2)巻九「忠度最期」があります。(2)については薩摩守忠度の凛凛しい武者振りと華麗な最期が語られておりますが、(1)「忠度の都落ち」の方が世阿弥の題目に相応しい。
 忠度は文武両道の武将でありました。平清盛が亡くなり、磐石であった政治体制が急変しますと、都を去って行きますが、その途中、歌の師匠、五条三位藤原俊成宅を尋ねますが、使の者に「三位殿に申すべきことがあって参りました。」と申し入れた処、ようやく戸を開けて中に招じ入れてもらうことが出来ました。忠度は、「ここ2、3年、京都に於ける騒ぎ、國々の乱れによって都落ちすることになりました。三位殿に撰集の沙汰があると承って、生涯の面目に一首なりとも御恩を蒙ろうと思い、世の中が平和になった暁に、選んで頂ければ」と、巻物の中に何首かの和歌を認めたものを鎧の引き合わせよりとり出して渡しました。三位殿は「こういうご時勢ですが決して疎略に扱ったり致しません。」と云って受け取りました。忠度は欣んで、「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕の雲に馳す」という意の漠詩(鴻鶴楼に孟江然が客を送る際作った)を口ずさみながら西へ落ちて行きました。俊成は譬え朝敵となっても構わず、忠度の和歌「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」を読み人知らずとして『千載集』に載せました。
 現代では薩摩守は名の「忠度」に懸けて、電車等の不正乗車に譬えられることもあります。江戸時代にも忠度をパロディ風に風刺した小咄がありました。
 「戦に破れた武将が、矢弾盡き尾羽うち枯れて途中、酒を出す屋台に寄りました。さんざん呑んだ挙句、『薩摩守とつけておけ』屋台のおやじは『さては只呑公ですか』と応じ、大福帳に、のみびとしらずとつけました」
 3月19日は水道橋の能楽堂で「船弁慶」の舞台があります。今後とも伝統について少しずつ研鑽を積み、残り少ない人生を豊かに過ごし度いと念じております。  

 



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