東京木材問屋協同組合


文苑 随想

日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」
其の10 水も溜らぬ籠釣瓶(かごつるべ)

愛三木材・名 倉 敬 世


 先月号で募集した質問の中で一番多かったのが,「〜実際なんぼ斬れるのかょ〜」でござんしたので,今回はそのお答えからスタートをする事に致しやしょう。

 この答は,エラク!&トテモ!,であります。元来,日本刀は切れるのが当たり前で「折れず,曲がらず,良く切れる」が建前ですので,どんなチンケな迷刀でも切れます。手入れをしていても初めの内は怪我は滅多にありませんが,慣れて来ると多くなります。何かの拍子に刃に触れると,ピリッとして生暖かい感じが掌たなごころに伝わり,しばらくしてから痛みがジーンと来ます。この程度ですと赤チンと包帯でもせいぜい3日で治り,生命に関わる事はありませんが,油断は禁物です。
 本当に人間の首が飛ぶのは,切り手の腕次第です。下手な者同士では悲惨な事になり,刀はボロボロギザギザで,互いに満身創痍でイタタの連続で凄惨な姿となりかねません。正にヤクザの喧嘩です。併しこの場合はのたうち廻りはしますが意外と死人は出ません。
 その点,武士はそうは参りません。トドメを刺すのが習いですので,完全に息の根を止めて「アウト!」に致しませんと作法に叶わず,後に色々と問題を残す事になります。

 数年前,三島由紀夫が市ヶ谷の防衛庁の本庁で割腹して果てました。その時に弟子の古賀正道が介錯をしましたが,三島が本当に腹を刺したので痛みで身体が揺れ,古賀の一の大刀が肩先に入り,二の大刀もハズレ,三島は絶命する迄に大変苦しんだ,との話が伝わって居りますが,この介錯は今の剣道の段持ちではどだい無理なのであります。
 この時の刀が斬味で有名な「関の孫六兼元」と云われて居りますが,?が3つです。共に刀を使うので「剣術」と「試し斬り」が良く混同されますが,実際は大違いです。「剣術」は1秒でも早く相手を倒した方がVですが,正確には刃が触れる迄の時間が勝負です。「試し斬り」はスピードとは関係が無く,切断の分量に意味があるのです。
 うまく切るとは刀の「刃筋」が進行方向と平行でなければダメで上手くは切れません。今の剣道(剣術)は丸い竹刀しないを使っておりますので,刃筋がどちらに向いていてもOKですが,これでは物は切れません。刀の平ひらや峰で撲っているのと同じ事なのです。剣道を相当やった人でも試し斬りをやらせると,上手く斬れないのは撲っている為です。又,刀が相手の身体に触れた後,押すか引くかしなければ上手く斬れません。肉を切る場合でも例え刃筋が正しくても上から押さえただけでは切れず,押すか引くかをすればスーッと切れます。刃の上に立つ曲芸が有りますが,体重が上から乗っているだけなら足は切れません,併し足が滑ればたとえ刃が止めてあっても足は切れてしまいます。
 それと反りの有る無しも大いに関係が有ります。どこの国でも刀剣の始めは直刀です。わが国でも実践での学習により平安初期より反りが付き始めてます。それ以降は直刀は廃れ湾刀の時代となります。反りは切れると同時に使い勝つても良くなり,スタイルも優美に見える様になりますので,この点も重要なポイントです。

 では刀はどのくらい丈夫なのか,と申しますと,幕末に信州松代藩(藩祖は真田信之,真田幸村の兄で藩は一度の改役も無く幕末迄続く)で大変な実験(試し)をしています。
 古竹を入れた巻藁の切断を19回。古鉄1回。鹿の角6回。兜1回。
 砂鉄入り陣笠2回。古鉄胴2回。四分一しぶいちの鍔2回。練鉄1回。
次に,鉄の棒で棟から打つこと7回,平から6回。鉄敷きに棟打ち13回,平打ち3回。これでやっと折れたそうである。その時使用された刀は自薦他薦の名刀ばかり16振で最後まで残ったのが,松代藩工の山浦真雄の新作刀。(弟が名人で勤皇刀工の源清麿)。

 水戸藩の試しはこれ程すざまじくは無いが,他の藩も此れに良く似た試しをしている。
1.“棒試し”直径5cm位の樫の棒で正眼に構えている刀の両側面を思い切りブッ叩き棟も叩く,刀は棟打ちに弱いので鍛錬不足だとここで折れてしまう,次に刃を斜めから叩き刃コボレやシナエ等が無いかを調べる。
2.“巻き藁試し”上記と同じだが回数は?,これで刃味の良否を調べる。
3.“鹿角試し”刀は刃肉を落せば薄くなり良く切れるが,堅い物に当たるとポロリと欠ける,よって2と3とをクリアーするのは相反する至難の業なのである。
4.“水試し”大樽に満杯に水を張り,その水面を刀の平で何十回も叩く,鍛錬の悪い刀は数回で折れ飛んでしまう。
 この時代,武張った刀が多いのは黒船来航とその後の維新の先取りのせいかと思う。

 刀の「斬れ味」は戦場での実体験の証明が一番だが,世は太平となり武士の表道具を試す機会も無くなり,需要も激減して売行きも不振を極めた,一番困ったのは刀鍛冶とその下職集団(研ぎ,鍔,白金,鞘,塗,組紐の七職)と刀屋である。そこで新作刀に「試し銘」を入れて売る事にした。こうすれば刀の売れぬ時代でもそこそこには売れた。その為に後世「試し切り」を職業としたと云われた「首斬り(山田)浅右衛門」の様な家(本来は将軍家の蔵刀の鋭利を試す掛り)も結果として出て来る事となった。
 尚,実際に江戸の初期には武家の「試し切り」が市中や近郷で大変に流行った様である。…今でも三代将軍・徳川家光(1623〜51)にはそのウワサが付き纏っています…。

斬首の図
首を斬りやすいように,
非人が囚人の背中を前へ
押し出している。

 当時の刑罰は一般人で6種(下手人→解死人,死罪,火罪,獄門,磔はりつけ,鋸挽き),武士が2種(切腹,斬罪),この内「試し切り」が許可されるのは死罪だけなのですが,当時はどの位の死刑判決が出たかと申しますと,南千住の小塚原刑場で千人から2千人(弘化元年,1844,川口厳孝回向院住職談)。江戸の刑場は「鈴が森」との2個所です。
 当時の処刑のシステムは,お白洲で死罪の判決が出ると刑は直ちに執行となります。罪人は,打ち役,綱取りのほか,大勢の非人,に取り囲まれて刑場に赴き,刑場の門をくぐると,目隠しをされ切り場(土壇場)のムシロの上に座らさせられ,非人が小刀で曳綱の背の結び目とノド綱を切り,着物の襟を押し下げ肩脱ぎの格好にして膝の着物を捲り上げる,…これらの着物は後で非人に下げ渡されるので,血で汚れるのを嫌った為。
 囚人の後に非人が2〜3人いて,片手で足を掴み一方の手で背中を押して,首を前に差し出した格好にする,そこを狙ってスパッと一閃,首はポロッと前の血溜りに落ちる。それと同時に非人が足を後に引き,上体を強く押すので身体は前にゆっくりと倒れる。

 実際には,介錯人は幕臣の子弟の役目で奉行所から指名をされるのだが,切り損じてその不浄の血の一滴でも検死の役人に振り掛かると,今度は自分が腹を切らねばならぬ。これでは旗本の子弟の首はいくらあっても足りない。そこで代打の登場となるのである。
 世の中には腕の良い者がいるもので,罪人の首を抱き首にして処刑をする名人がいた。「抱き首」とは切られた首が自分のヘソに挨拶し乍ら,自分が掘った血溜りに落る事。

 普通,人様の首もニワトリの首も同じで,突然スパッと切り放されると,血圧の関係でかなり飛ぶ,一番飛んだのは平将門の首で茨城の岩井から大手町1丁目まで飛んでいる。そのため,斬首の時に首の皮一枚を残す,この妙技が「首切り浅右衛門家」の伝統である。浅右衛門家の修業や鍛錬は並大抵ではなかった様で,代々養子なのはそれが理由だとの事。
 よって腕に自信の無い者は初から試し切りの名人に頼むことになる。尤も切り手には刀の研ぎ代として2分(半両)の手当が出ていたが,それは指名された者の懐に入り,実際の切り手は○,代りに首の無い胴体を貰う,実は其の持ち帰った胴体に価値がある。

 先ずレバー(肝)を取りはずしてから「試し斬り」をする,高名な「試刀家」になると,高級武家,政商,刀鍛冶,等よりの試し物の依頼はかなり多かった様で胴体は勿論の事,手足の細部まで無駄なく使った様である。又,当然ながら場所によって難易の差がある,胴体だけでも3,4cm刻みに名称が付けられ,身体全体では流派によっても大分違うが,10〜25個所もある。一番切りにくいのは八枚目や車先(ヘソの前後)の脂肪太りの腹で,骨の多い雁金や一の胴(アバラ)の方が切り易かったとの事である。

 問題なのはレバー(生き肝)の方である。今でも熊の胃は地方によっては「値千金」の価値が有るが,当時でも〜熊より人間様の方がホンマはベストだがネ〜と思われていた,よって,浅右衛門家では取り出した肝臓と胆嚢を陰干しにして,乾いたら薬研で摺り潰し,
「慶心丸」と云う薬を造っていた。この薬は浅右衛門家の先祖(二代・吉時)が,八代将軍・吉宗の時に屋敷の拝領を辞退した代わりに手に入れたもので,言わばお墨付きの独占販売であった。この薬の成分は極秘とされたが,万病に効能有りとして良く売れた。お陰で幕末には浅右衛門家は江戸でベストテンに入る程の指折りのセレブになっていた。しかし,明治15年に斬首は廃止となり,慶心丸の原料も入手が困難になり廃業となる。従って,「首斬り浅右衛門家」は明暦三年(1657・振袖火事)より明治15年8月15日(1882)迄,八代・吉亮で225年の歴史を閉じる事となった。
 現在,国宝として上野の国立博物館にあり,楠正成の佩刀と云われる「小竜景光」は山田浅右衛門が土佐藩と張合い,大金を出し買い求めた後,明治天皇に献上した刀である。

(A)

一の胴
試し斬りの部位の名称は江戸前期と後期では異なる。前期には乳上4〜5センチ,後期では心窩部をいう。この図は前期の名称によったようである。
(B)

二重胴
二つ胴ともいう。死体を互違いにして側臥位で,前の死体を後ろから抱くように重ねる。斬る場所は普通,一の胴である

 ところで死体の試し斬りとはどの様にするのか,目的は刀の斬れ味の吟味で有る事は勿論であるが,生き胴とは違い「据え物」斬りとなるのでビックリする程の凄さである。
 先ず A 図の如く土で壇を築き,その上に頭をはずした死体を1体だけ乗せて斬るのが「一の胴」で,二,三,四,五,六,と段々数は少なくなるが,究極「七の胴」迄ある。死体がリャンコに七体も重なっているんですよ,1体20cmとしても1m40cmですょ,貴方ならどうする〜,実際は刀にバカデカイ鍔を付けて,上から飛び降りて押し切った。この「七ッ胴」落しは,備前基光,関の兼房,の二刀が知られており,特に「兼房」はどの刀も刃味が勝れ古来称賛されているものだが,この「七ッ胴・兼房」は明治のころ,第九銀行の頭取で愛刀家として知られた,堀部直臣氏の手元に有ったが,東京の刀屋の網屋に買われ,後に熊本の愛刀家の川端正脩氏が持つが戦後は同家を出たとの事である。他に「兼房」には,寛永十五年寅八月十三日かこつるべ,切手山野勘十郎の名刀が有る。「籠釣瓶・かごつるべ」=籠で作った釣瓶のように,水も溜らぬ,斬れ味を示す事ダワ。

七つ胴落とし兼房 刃長70.4センチ強

※刀の切れ味を称賛した異名には大変ユニークな命名や含蓄のある名称も多いのだが,今回は時間斬れのため,次回に紹介を致しやす。


 

 

 





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