東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本人 教養 講座 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀♪」

其の37(皇太子の守り刀)

愛三木材・名 倉 敬 世

桜花文兵庫鎖太刀拵 [刀身 銘 備前国友成]

 前回は天皇陛下の「守り刀」の説明致しましたので,今回は皇太子の「守り刀」に付きご参考迄に少々。
 古来この剣を「壷切剣」と申しますが,我国にては大正天皇が明治20年8月21日に
皇太子に成られる迄,長らく皇太子は存在せず,大正天皇が同格で明宮嘉仁親王と申す親王名のネーミングで居られました。
 明治二十二年,「皇室典範」が制定され,皇長子(長男の親王)を「皇太子」と決定された。そこで,大正天皇が年九才にして初めて皇太子になられた次第です,尚,昭和天皇は明治34年4月29日生のため,生まれた途端に「皇太子」の資格を得られて居られます。
 併し,正式に皇太子として認知されるには,「立太子」の式を挙げ内外に宣言する事が肝要であり,これは「加冠の儀」(成人式)と同時に行われる事が慣わしとなっております。現在は立太子の儀式は一般的には既定の事実の追認,いわゆるセレモニーに過ぎませんが,長い伝統を継承する皇室に於いては廃止する事も出来かね,今も存続をしている次第です。
 では,その儀式はどの様なものかと申しますと,先ず天皇が宮中三殿の賢所にて丁寧に立太子の報告を行われて,その後に皇太子の守り刀である「壷切之剣」を授与されます。皇太子の個人の守り刀としては誕生と同時に「贈剣の儀」で天皇より短刀が贈られてます。
 …願わくば,平成十八年(2006)・月報の11月号(通巻675号)を参照してたもれ…

 大正天皇が昭和天皇の立太子の折りに与えた勅語にも,「壷切ノ剣ハ歴朝,皇太子ニ伝ヘ以ツテ朕ガ身ニオヨベリ,今之ヲ汝ニ伝フ,汝其レ之ヲ体セヨ」とあるが如く,皇太子の守り刀としての壺切剣の歴史は古く,六十代・醍醐天皇(898〜930)の御代からである。
 剣名の由来は定かでは無いが,古来より斬壷剣・切壷剣と呼称されているので,発祥は壷を切った故事による命名は確かだと思われます。
 その剣の持主は,藤原長良,弟の良房,その子の基経などと云われているが,珍なるは漢の高祖の右腕の張良(秦の皇帝を襲い名を挙げた功臣)との説もあり,ビックリギョウテン。但し,これは長良と張良が音読みだとチョウラとなり同音なので,明らかなる誤説である。

※ 黄石公 張良の図
張良が
黄石公より兵法の極意を授かる。
中国の有名な故事の図、龍は黄石公の化身
である。

 では,この三人の内で誰が皇室に献上したのか,長良は参議・左衛門督,止まりで無理,…死後に,倅が偉ろう成ったので太政大臣を追贈された…これに対し,良房は妹の順子が54代の仁明天皇の女御となったので,時の皇太子の恒貞親王を廃し妹が産んだ道康親王を皇太子に擁立した,これが55代の文徳天皇である。又,良房は天皇が皇太子の時代に娘の明子を皇太子妃にし(イトコ同士),その明子が生んだ子供が生まれると直に皇太子にした。これが後の56代の清和天皇であり,後世この一門から武人が多く輩出し清和源氏と称した。

 基経は良房の実弟だが,良房の養子になり,実兄の長良の娘の高子が清和天皇の女御となり男子を産むと,翌年には皇太子に推挙し実現さす,これが後の57代の陽成天皇である。但し,陽成天皇が成長し基経との間が不和になると,仁明天皇の第三皇子を皇太子にして直ちに即位させ,58代の光考天皇にした。この光孝天皇が重態となるや,間髪を入れず,天皇の第七子を皇太子とし即日即位させた。これが59代の宇多天皇であり,宇多源氏の祖。
  尚,娘の温子や孫の褒子も宇多天皇の女御にしており,それぞれに皇子が有った,為に基経が健在ならばこれらの皇子は全て天皇に即位させていたに違いない。しかし,基経は寛平三年(891)56才で往生となる,兄の良房と二代続けて関白となり33年の天下で有った。宇多天皇の次の60代は醍醐天皇であり,基経はここにも既に娘の隠子を皇后にしてあって,61代の朱雀天皇も62代の村上天皇も全て隠子の産んだ子であり,これらの天皇の同腹の兄の保明親王が皇太子になっていたが早死にをしたので,弟達が順に天皇に即位している。

 因みに,藤原家はご承知の通り,大化改新(645)で中大兄皇子(後の天智天皇)に協力した中臣鎌足より発祥し,我国の根幹でござる「天皇家」存続の維持機関である公家のトップ。
…天智8年(669)に功により大織冠(大勲位とチト似ているが?)と藤原の姓を下賜される…
  本来は鎌足の孫から南家・北家・式家・京家の四家が発展し,関白や太政大臣を独占し平氏の全盛(清盛・太政大臣→武家で始めて)となる仁安二年(1167)迄の500年も続く。


梨地菊桐紋蒔絵糸巻太刀拵 [刀身 銘 宝寿]
 一説によると,壷切剣は初めは斬壷剣と呼ばれていた様である。文徳天皇の病気平癒に斬壷剣が必要だと陰陽師に言われて与えたが天皇が崩御されてしまい,陰陽師はトンズラ,斬壷剣は行方不明,と云う事件が天安二年(858)に起きている。後に剣は神泉苑の地中から無事に無傷で発見されたとの事である。
  文徳天皇は元来が病弱で32才で逝去されており,政治は母親の兄で皇后の父である良房に一任されていたので,斬壷剣も良房が献上した公算が高いが,関白基経が仁和五年(889)に宇多天皇に奏上している中に,斬壷剣は我家に代々伝わった剣で,父(良房)が所持していた,と言っているので基経が献上したとも考えられる。

 斬壷剣が皇太子の守り刀となったのは,宇多天皇が寛平五年(893)四月に後の醍醐天皇を皇太子にした時からであり,藤原山陰が使者となり皇太子に渡している。その醍醐天皇の皇后は自分の娘の隠子だが,その子供の保明親王は次男でもありしかも未だ三ケ月の赤子なのに,延喜四年(904)2月に皇太子にして,藤原定方を使者に立て壷切剣を与えている。
  この期待された保明皇太子が21才で早世されると,その子供で長子であるが未だ三歳の慶頼親王を母が孫娘と云う事で皇太子にしたが,これも五才で亡くなったので基経の娘が産んだ寛明親王を皇太子として斬壷剣を渡した,これが61代の朱雀天皇(931?946)である。

 70代の後冷泉天皇が寛徳二年(1045)正月に即位されると同時に後の71代後三条天皇が皇太子になられたが,斬壷剣は貰えなかった。これは後冷泉天皇の母は藤原道長の娘だが後三条天皇の母は三条天皇の皇女だから,という理由でござんす。
  本来,斬壷剣は藤原氏の娘が産んだ皇太子の守り刀として一族が献上したものであって,藤原氏以外の出生の者には渡すべきでは無い,という暗黙の掟が存在していたせいである。前期の後三条天皇の場合も道長の子供の右大臣教通が強く反対した為だと云われている。

 康平二年(1059)正月に,皇居が炎上して切壷剣も灰燼に帰した。後三条天皇は冶暦四年(1068)7月に即位式を挙げると,翌8月には白河天皇を皇太子とされた。白河天皇は母が藤原能信の養女だったので,藤原教通が壷切剣になる太刀を献上した。しかし,この剣も暮の12月11日に皇居が炎上し罹災をした,外装は焼けたが刀身は残ったので焼き直して使用し,鞘は海浦の蒔絵と竜の螺鈿を施した物を新調して,帯執りも青革とされた。

 これより下って117年後の82代の後鳥羽天皇の時に承久の乱が起り紛失をしてしまい,89代の後深草天皇が寛元元年(1243)の立太子の際に,壷切剣に替わる新剣を花山院師継が勅使となり持参し皇太子に渡したが,次の90代の亀山天皇が,正嘉二年(1258)立太子の際,勝光明寺の宝庫から,承久の乱の折に紛失をした壷切剣が38年ぶりに発見をされたので,早速,今迄の代用された焼身の剣と交換された事は云うまでも無い。

 南北朝期になると,観応二年(1351)に足利直義が南朝に降伏すると,神剣・神璽と共に,壷切剣も南朝方に引き渡す事になった。それらは二階の折妻戸の中に安置してあったので,蔵人範泰と左少将康清が御簾を巻き上げて取り出して,長櫃に入れて南朝方に引き渡した。


梨地葵紋蒔絵糸巻太刀拵 [刀身 銘 吉包]
 江戸期になると承応二年(1653)か万治四年(1661)の皇居炎上で壷切剣も焼けてしまった,併し焼跡を探すと外装は焼けていたが,刀身は疵も無かったので研ぎ直し外装を新調した。
  113代の東山天皇は天和二年(1682)に僅か8才で霊元天皇の皇太子と決まった,すると,霊元天皇は翌々日に壷切剣を密かに土御門兵部少輔泰福に持たせて,皇太子に贈っている。普通は立太子の儀式が済んだ後で近衛の中将か少将が渡すが本儀であるので,この場合のこのケースは異例と云う他は無い。
  尤も,立太子の式は長く中断していたので,今回も行われ無いと思われていたからかも知れないが,その予想に反して,翌三年(1683)の2月9日に久し振りに復活し挙行された。その後も継続されて今日に至っている。

 壷切剣の中身(刀身)に付いては,伝えられていない。江戸中期の「嘉良喜随筆」には,天国の作と有るが,それは信じられない。なんでも,近衛家に降嫁された皇女が病気の時,呪いのため禁中より拝借して,そのまま返すのを忘れ永く同家に伝っていたが,ある時に禁中で重病が出て思い出し取り返した。との事であるが,これは壷切が皇太子の守り刀と知らぬ者の虚説である。

 天皇家に現在伝わっている壷切剣の概略は以下の如くである。
刃長(外装は入れず),二尺五分(62.1cm)と二尺二寸五分(68.2cm)との説がある。
一方は無反りの切刃造りで,切っ先は小烏丸←平家の重宝,と似ていて両刃造りとなる。
片方は普通の鎬造りの太刀であり,銘は備前の信房,又は,延房との事である。
地鉄は精美であるが,刃文は刀身が火に罹っているので,直刃の様だがはっきりとしない。
中心は反があり,目釘穴は不規則な形で大きい穴が二個,作者は古備前「信房」という。


金銀鈿荘唐大刀

太刀 無銘(小鳥丸)

太刀 銘 信房作(号 十万束)御物
 …評価とすれば,銘と伝来は当然,千金だが,焼身では何とも実価は不可である…
  尚,刀剣界の常識では,天国,天座,はタブーなのである。100%贋物と思って間違い無い。



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