東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.86

「下部温泉」と「身延山・久遠寺」

青木行雄


 戦国時代最強の騎馬軍団を率いた甲斐の名将,武田信玄。独断的だった父信虎とは対照的で,史書,兵書,経書を読んで勉学に励み,真髄を極めての政治統制を行った信玄。有名な「風林火山」という言葉も2007年のNHK大河ドラマの題名となり,放映中であるが,中国の兵法書「孫子軍争編」からとった言葉と言う。合戦の際には,陣頭に打ち立てて,無敵の強さを誇り,領土を拡大していったのである。話は長くなったが,その武田信玄が川中島の戦いで受けた傷を癒したと伝わる,信玄の隠し湯として有名な「下部温泉」を記して見た。その温泉に2月,縁あって行く機会を得た。この温泉は歴史は古く,約1,200年前の景行天皇の頃といわれるらしい。日本史年表より調べて見たがよく分からない。
  下部川の渓流に沿って30軒ほどの宿が軒を連ねて温泉街を形成しており,今も湯治場の雰囲気を色濃く漂わせていた。私達はJR駅下部温泉駅のすぐ近くの宿だったので,温泉街は1kmぐらい上流の所にあるのだが,私達の宿は大変静かな所であった。この下部温泉は源泉が低温なので,多くの宿では,源泉の湯と湧かし湯の2つの浴槽を備えており,『交互に入浴すると効能が高いですよ』とお上が教えてくれた。若山牧水や高浜虚子などの文人にも愛された湯と聞いた。
  私の宿泊した下部ホテルの玄関先には高浜虚子作の句が書かれていた。 「この行や 花千本を 腹中に」 高浜虚子が下部に行った頃,ちょうど咲き誇る野の花を見て,下部の地を楽しみながら詠んだ句と思われる。
  当館の売店の横に「石原裕次郎」記念コーナーが特設されていたので聞いて見ると,裕次郎がまだ元気だった頃,志賀高原でのスキー中,粉砕複雑骨折の事故に遭った事があった。その時,医師より切開手術を勧められたが,メスを入れることを嫌い温泉療法の道を選び,昭和36年この温泉へやってこられ,まき子夫人と共にこの下部ホテルで約2ヶ月間滞在された,と話してくれた。
  記念コーナーには,石原裕次郎の数々の写真や,直筆の書や,彼にまつわる多数の逸話集が集められ飾られていた。
  特に裕次郎の直筆の書として額に入っている2点が目立ったので記して見る。
   「痛みとれ 別れ惜しむか 下部の湯」
   「身延路を 右に左に 下部の湯」
  当館に滞在していた頃の貴重な当時の写真も見る事が出来た。
  回復後の初映画作品の「あいつと私」を観た人もあったと思うが,これ以降,さらに裕次郎の活動が飛躍したと言う事であった。
  別に下部ホテルでは,裕次郎の滞在していた「裕林の間」や裕次郎が約2ヶ月間湯治したと言う浴室と露天風呂も残されていて,見ることが出来る。又自分が宿した「裕林の間」のカンバンも書いた板も残っていた。
  このホテルでは,この裕次郎の影響もかなりあるのではと,ひそかに思った次第である。

下部温泉の湯質

泉  質 単純温泉,無色
効  能 神経痛,打ち身,胃腸病,肩こり,腰痛,火傷,皮膚病,外傷骨折,高血圧,疲労回復
源泉類 7
泉  温 30℃前後
湯  量 不明
含有成分 硫酸イオン,カリウムイオン,メタ硫酸,オトリウムイオン,他

下部温泉のぬる湯効果

 下部温泉の温度は人の体温以下であるが,ぬる温故の特徴があると言う。
  適応症の中の「火傷・外傷」は,もし熱いお湯ではシミルような痛みがあり,入ることが困難である。そのような場合でも安心して入浴出来る治療効果が可能と言う。それが故に石原裕次郎はわざわざこの不便な「下部温泉」を選んだのだろうか。


※ホテルの玄関の風景だが,松林の中で環境は大変良く,やっぱり行くなら夏だろうか。

       「下部温泉」       19年2月17日
     身延山のふもとに湧いた
     低温・温泉の湯は
     1200年の歴史があって
     山の谷間に吹き出した
     川添いの温泉町は
     昔からの湯治客多く
     信玄の隠し湯としても
     全国に知れわたる
     身延山久遠寺に近い
     参拝客も手頃に泊る
     湯治場の雰囲気濃くて
     今も変らぬ下部の温泉


※下部川の流れる川沿いに建つ温泉旅館。この川の上流には30軒ほどの宿が軒を連ねており,今も湯治場の雰囲気を漂わせている。

※文面には記してないが,すぐ近くに湯元奥金山博物館があり,昔ここ下部には湯の奥金山と言い金が採れたと言う。信玄,戦国時代のことである。

 下部温泉と身延山は何んの関わりはないのだが,身延山にお参りに行くと近くの下部温泉に泊るケースが一番多いと言う事で,つながりがあると言えばあるのである。
  身延山と言えば,日蓮聖人の久遠寺で,日蓮聖人と言えば,やはり本山のある身延山と言うことになるのである。

 身延山の概要を少し記して見ると。
  身延山は山梨県の身延町にある山である。下部温泉のある下部町も近年合併して身延町となったので身延山久遠寺も同じ町内になった。身延山の山頂は標高1153mある。山麓の標高400m付近に日蓮宗総本山である身延山久遠寺があり,山頂にも日蓮が父母を偲んで建立したと言われる奥之院思親閣がある。身延山の参拝客のほか,頂上からの眺望がよいため観光客も多く訪れるらしい。
  久遠寺駅からロープウエイに乗れば山頂まで約7分で到達するが,徒歩で登山すれば約2時間30分の道のりと言う。
  それでは,身延山と久遠寺との由緒を記して見ると。
  鎌倉時代,疫病や天災が相次ぐ末法の世,「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は,三度にわたり幕府に諫言を行ったが,いずれも受け入れられなかった。当時,身延山は甲斐の国・波木井郷を治める地頭の南部実長の領地であった。日蓮聖人は信者であった実長の招きにより,1274年(文永11年)5月17日,この身延山に入山し,同年6月17日より,鷹取山のふもとの西谷に構えた草庵を住処とした。この事により,1274年5月17日を日蓮聖人身延山入山の日,同年6月17日を身延山開闢の日としたと言う。日蓮聖人は,これ以来,足かけ9年の永きにわたり,法華経の読誦と門弟たちの教導に終始し,1281年(弘安4年)11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し,自ら「身延山久遠寺」と命名したとなっている。

 翌1282年(弘安5年)9月8日,日蓮聖人は病身を養うためにと,両親の墓参の為に,ひとまず山を下り,常陸の国(現在の茨城県)に向かったが,同年10月13日,その途上の武蔵の国,池上(現在の東京都大田区)にて,その61年の生涯を閉じられたのである。そして,「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり,そのご遺骨は身延山に奉ぜられ,心霊とともに祀られているのである。

 その後,身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人,白向上人とその門流によって継承され,約200年後の1475年(文明7年),第11世日朝上人により,狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され,伽藍の整備が進められた。後に,武田氏や徳川家の崇拝,外護を受けて栄え,1706年(宝永3年)には皇室勅願所ともなっていると言う。

 日蓮聖人のご入滅以来,実に700年有余,法灯は綿々と絶えることなく,廟墓は歴代住職によって守護され,今日に及んでいると言う。日蓮聖人が法華経を読誦し,法華経に命を捧げた霊境・身延山久遠寺,総本山として門下の厚い信仰を集め,広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として,日々参詣が絶える事がないようである。又今,本山の前庭に「五重の塔」の建設が大成建設(株)により進められていた。

 日蓮聖人については,何度か取り上げて記して来たが,もう一度,歩いて来た道を

調べて見た。
  日蓮聖人は,1222年(貞応元年)2月16日,安房国東条郷(現在の千葉県安房郡天津小湊町)で生まれ「善日麿」と命名されている。1233年(天福元年),日蓮聖人12歳のとき,生家近くの清澄寺に登り道善房に師事,「薬王丸」と改名,16歳のとき正式に出家得度し,「是聖房連長」と号された。


※身延山久遠寺の大本堂である。この本堂の前庭に五重の塔が建設中であった。2?3年後には又1つ景観が加わる事になる。全国に支寺が5000寺あると言う日蓮宗の総本山,日蓮聖人の力量が見えて来る。

  若き日の日蓮聖人は清澄寺にて本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来,鎌倉・比叡山・高野山など遊学し,ひたすら勉学に励んだと言う。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で,「法華経」こそが末法の世の全ての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信したと記されている。
  そして,十有余年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住する清澄寺に戻った日蓮聖人は,1253年(建長5年)4月28日早朝,清澄山の旭森山頂に立ち,太平洋の彼方から暁闇を破ってつき登る朝日に向かって高らかにお題目を唱え,ついに立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのである。このとき日蓮聖人32歳,同時に名を「日蓮」と改められたと記されている。
  日蓮聖人についての史籍は山程はり,凡人の私には,とても理解出来ない所も多くあるが,概略はこれまで記した積りである。
  今回,甲府の見学から,下部温泉に宿泊し,身延山久遠寺に参拝,見たまま,聞いたまま,資料,史料から,記して見た。


平成19年3月25日記
 

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