東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.160

〜歴史探訪 一人旅〜
ロシア船─「ディアナ号」─
─安政東海地震デ奥駿河湾ニ沈没ス─

青木行雄

 

※駿河湾から見る「富士山」は又すばらしい。世界遺産に推薦された富士山は又格別だ。
※戸田村は沼津市に合併して沼津市になった。今でもちょっと不便だが見ての通り、美しい街並み。
※「ディアナ号の錨」長さ4.8m、重さ約4t、2000tの帆船の錨である。3機あると言うが、その内の1機は見つかっていないと言う。
※ディアナ号の模型。1970年の大阪万博に出品された模型をこの博物館に寄贈された本物である。日露友好の歴史の象徴である。
※戸田港の風景。松原並木が続き、突端の森の中に「諸口神社」と「資料博物館」がある。日露友好の物品が詰まっていた。
※戸田港が夕焼けにそまっている。なんとすばらしい風景だろうか。夕方夜の魚場に出かける船が多く、今港内は船が少ない。
※下田から「ディアナ号」が曳航された経路と1854年12月2日沈没した場所の地図である。
※プチャーチンの肖像画である。ロシアのニコライ1世の命により戸田に滞在中の画となっている。

 1854年(嘉永7年、安政元年)、安政東海地震が東海地方を襲い、その津波が「ディアナ号」を飲み込んだ。「ディアナ号」は津波に翻弄されながら、駿河湾内をさまよい、舵と船底を大きく破損してしまった。辛うじて沈没は免かれたが、船員が手回しのポンプを昼夜交代で動かし続けなければならないほど浸水が激しく、修理は一刻を争ったのである・・・。

 縁あって、静岡県沼津市戸田2710-1の「沼津市戸田造船郷土資料博物館」に立ち寄ることになった。
 そして最初に目に飛び込んできたのが「ディアナ号の錨」、この博物館の玄関脇にデーンと飾られていた。この錨の説明ボードにはこんなことが。
 「この錨は、1854年に奥駿河湾で沈没したロシアの軍艦『ディアナ号』のもので、昭和29年に富士市田子の浦の漁民によって引き上げられ、後にこの博物館に移されました。長さは4.8m、重さは約4tもあり、2000tの帆船にふさわしい大きさです」と書かれてあった。

 そしてこの博物館の説明文は下記のとおりであった。
 「1855年(安政2年)にロシア人と戸田の船大工の協力によって建造された『ヘダ号』は日本で初めての本格的な洋式帆船でした。館内には『ヘダ号』設計図や大工道具が展示され、建造のきっかけとなったロシアの軍艦『ディアナ号』の津波による被災から沈没。更に『ヘダ号』建造に至るまでの経過が紹介されています」

 それではロシア船「ディアナ号」が駿河湾で何故沈没したのか、日本の国情が大きく変ろうとしていた幕末の慌ただしい時代に何があったのか、詳しく記して見たい。

 1852年(嘉永5年)8月、ロシアのニコライ1世の命を受けたプチャーチンは、日本との国交交渉に臨むべくロシアを「パルラダ号」で出発した。大西洋を南下、喜望峰を回って、翌年1853年(嘉永6年)7月17日に長崎の出島へ「パルラダ号」以下4隻の艦隊で入港した。一足先に日本へやってきたアメリカのペリーが、いきなり江戸湾にやってきたのに対して、そこには日本の国内事情を尊重しようとするプチャーチンの紳士的な態度が現われていたようだ。
 しかし長崎での幕府側代表との会談は捗らず、一時交渉を中断し、フィリピンのマニラに入港するが、このときクリミア戦争でトルコを援護していたイギリス・フランスとロシアとの関係が決裂し、両国と交戦状態に入ったことを知る。その後長い航海で傷ついた「パルラダ号」をペテルブルグから回航して来た「ディアナ号」に乗りかえ、1854年(嘉永7年)8月30日プチャーチンは交渉再開のために「ディアナ号」で箱館に入港するが、その年の3月すでにアメリカと「日米和親条約」が結ばれていたことを知る。この時を境にロシア・プチャーチンの行動はやや強引なものになって来る。9月18日、紀伊水道を抜けた「ディアナ号」は、大阪湾に深く入り天保山沖まで船を進めた。ここから淀川を遡れば、天皇のいる京都までは50q足らずの距離である。「摂海侵入」ともいわれるこの事件は、朝廷や幕府に大きな衝撃を与えたのである。この事件を境に、政局の焦点は次第に江戸から京都に移り、「尊王攘夷論」の台頭と共に、新撰組誕生のきっかけにもなったと言うのである。
 ロシア・プチャーチンの強硬な態度に押された幕府は、京都の騒乱を避けるために、新たな交渉の場所として既に開港していた下田を指示する。1854年(嘉永7年)10月15日、プチャーチンは「ディアナ号」を下田港内に停泊させ、11月3日には幕府側の代表である川路聖謨との交渉に臨んだのである。
 そしてその翌日、1854年(安政元年)11月4日、表題の安政東海地震が東海地方を襲い、その津波が東海・伊豆を直撃し、下田に停泊中の「ディアナ号」を飲み込んでしまったのである。「ディアナ号」は津波に翻弄されながら湾内をさまよい、舵と船底を大きく破損してしまった。辛うじてこの時は沈没は免れたが、手回しのポンプを昼夜交代で動かし続けなければならないほど浸水が激しく、修理は一刻を争ったのである。  幕府は下田港で「ディアナ号」を修理するよう求めたが下田ではクリミア戦争で敵国となったフランスやイギリスに見つかりやすいうえに、港の施設も津波で破壊されているため、近くて適地を探した。そして日露の協議の後、この戸田港で修理することに決定したのである。
 幕府側の代表者だった川路聖謨はその時の日記にこんなことが書いてあったと言う。「戸田村と云うを見出したり。それは誰も知らず。勿論図等には更になし。しかしよく聞けば良港也。今まで人の知らぬ所也。」と記してあったと言う。これ程知られていなかった所だが、すばらしい港であった。戸田港は御浜岬によって波風から守られ、砂浜は遠浅で巨大な帆船の底部を、横倒しにしながら修理するのにうってつけの場所だったのである。外海からは修理中の「ディアナ号」を見つけにいくという環境も、プチャーチンを安心させたようである。
 1854年(嘉永7年)11月26日、応急処置を施された「ディアナ号」は、穏やかな北風の中下田港を出発した。しばらくは順調に伊豆西海岸を北上したが、次第に強まった強風と荒波のため、目的の戸田港には入ることが出来ず、北西に向けて流されていく。富士川河口沖にあった砂州が近づいて来たため、急いで帆をたたんで錨を下ろし、なんとか座礁を避けることができたが、浸水は激しくなるばかりであった。プチャーチンは全員の退艦を決断する。カッターボートが下ろされ、水兵たちは荒れた海の中を必死の思いで岸に向けて漕ぎ出した。命綱をつけた漁民が浜では波打ち際で待ちかまえ、近づいたボートが引き波でさらわれないよう、命がけの救助活動にあたったのである。こうして500名あまりの乗組員は、奇跡的に全員無事に上陸することが出来たのである。
 天候の回復を待って積荷が陸揚げされ、錨も切り落とされて身軽になった「ディアナ号」は、戸田に向けて曳航されることになった。周辺の漁民があやつる100隻ほどの小舟に、「ディアナ号」から伸びた枝綱が結びつけられ、ゆっくりと戸田に向けて進んで行く。しかし2里程曳航すると、再び西風が強まり始めた。このままでは漁民の小舟が危ないと船頭の尾身久蔵は元網を切って仲間100隻の船を逃がした。  曳き綱を外された「ディアナ号」は船首を天に向け、駿河湾深く沈んでいったのである。
 この「ディアナ号」の船首には、ロシア・ロマノフ王朝の紋章である「双頭の鷲」が飾られていた。この「双頭の鷲」は今、「プチャーチン家」を引き継ぐ子孫の家紋になっているのである。
 そして、帰る船を失ったプチャーチンは、幕府に代船の建造を願い出る。攘夷論が台頭しつつある国内情勢を受け、ロシア人を皆殺しにすべし、という意見さえ出されるなかで、幕府は戸田での代船建造を決定する。人道上、あるいは国際信義上の配慮に基づく判断だったと言うが、幕府にとっては西洋から造船の技術を学べるまたとない機会でもあったのである。
 伊豆韮山の代官江川英龍が建造取締役に任命され、戸田では廻船業を営む有力者が「造船御用掛」に、そして船大工の棟梁たちが「造船世話掛」に任じられたのである。
 そして設計図の元になったのは、「ディアナ号」から運び出されたスクーナー型帆船の図面であった。しかしロシアと日本では長さの単位も異なり、直訳を介さない。言葉も通じなかったので、ロシア人技師に実物大の設計図を引いてもらい、そこから船大工たちが寸法を採っていった。
 当時、戸田には廻船業が盛んで、多くの船大工がおり、彼らが造っていたのは千石船などの和船であった。
 このロシア船は洋式船で和船とはかなりの隔たりがあったが、腕自慢の戸田の船大工たちは初めての洋式船の建造に戸惑ったものの、熱心で緻密な仕事ぶりにロシア人たちは大変驚いたと言う。
 建造に様々な障害を乗り越え、作業開始から約2ヵ月半後、日本で初めてとなる本格的な洋式帆船が完成したのである。
 総長約24.6m、100tにも満たない小さな船だが、当時の作業環境を考えると驚異的な速さだったらしい。
 プチャーチンはこの船を「ヘダ号」と名付け、1855年(安政2年)3月22日、戸田港を出帆し、ロシア沿海州経由でペテルブルグに向かった。その時、プチャーチンは感謝の気持ちを表するため、身の回りの品々を戸田の人々に分け与え、こんな言葉を残している。
 「我が魂を永遠にこの地に留め置くべし」。
 戸田近港に500人あまり上陸したロシア人は、戸田で建造した「ヘダ号」では小船のため少人数帰国、その後アメリカとドイツの商船を雇って帰国したが、戸田に残ったロシア人もいて、今でもその子孫が居るらしい。以前時々目の青い人を見かけたと地元の人が言っていた。

 帰る船を失ったプチャーチンの要請で造られた「ヘダ号」、この「ヘダ号」建造に従事した戸田の船大工達は、その後各地の造船所に招かれ、幕末から明治にかけて日本近代造船発展の担い手となったと言うことである。

 1856年(安政3年)、プチャーチンの副官だったポシェットが、日露和親条約の批准書を携えて日本にやって来た。このとき沿海州に係留されていた「ヘダ号」も艤装をし直して下田に回航され、幕府に返却されたと言うことだ。
 ポシェートは1882年(明治15年)に軍艦「ステレイローガ号」で再び日本を訪れ、戸田に入港して村民との再会を果した。彼は村の有力者達を艦内に招き入れて接待し、夜には暗い戸田港を軍艦のサーチライトで照らし感謝の気持ちを表現したという逸話も伝わっている。
 プチャーチンの死後、ロシア皇后付名誉女官だった娘のオリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表すために戸田を訪れている。オリガは父の旧跡を訪ね、後に戸田村へ100ルーブルも寄贈したと言うではないか。
 1891年(明治24年)ロシア皇太子ニコライが戸田を来訪する計画が明らかになると、かつての造船御用掛・世話掛の子孫など、村の有力者が発起人となって、「造船記念碑」の建立を計画され、各界広く賛同者を募った。しかし残念なことに、この計画は大津事件をきっかけとする国内情勢のために断念され、皇太子の来村は実現しなかった。
 その後、日本とロシアの関係は次第に悪化し、1904年(明治37年)には日露戦争にまで発展したが、戸田の村民はプチャーチンの遺品などは捨てなかったようだ。
 昭和40年代に入ると、両国の関係はより親密になっていく。1969年(昭和44年)の当館の建設にあたり、ソビエト連邦政府から、500万円の寄付を受けている。当時のトロヤノフスキー大使は、自ら戸田に出向き、多くの村民の前でその目録を山田三郎当時の村長に手渡したと言う。当館で当時の写真も見ることが出来た。
 1970年(昭和45年)大阪万国博覧会が開催されたが、旧ソビエト連邦の展示館にはあの「ディアナ号」の模型が展示された。万博終了後には、この展示された「ディアナ号の模型」と「ステンドグラス」が当館に寄贈されている。この展示品を見ながら、当時何回か大阪万博に行き、旧ソビエト館にも何回か入場し、うろ覚えながらこの「ディアナ号の模型」を見た事を思い出して胸にジーンとくるものがあった。
 2005年(平成17年)のプチャーチン来航150周年にあたり、「日露友好150周年記念碑」がサンクトベテルブルク・下田市・富士市・戸田村に建てられた。同年11月に日本を訪れたプーチン大統領には、日本政府から「ヘダ号」の模型が、戸田村と合併した沼津市からは、「ヘダ号」を染め抜いた大漁旗が贈られたと聞いた。

 この文面にあるようにプチャーチンの娘オリガ・プチャーチナから「100ルーブル」の寄贈や、当館の建設にソビエト連邦政府から「500万円」の寄付も受けている等。
 戸田とロシアとの交流がいかに親密か、日露戦争など不幸な出来事を乗り越え、日露の信頼と友情を今に続けているのかが伺える。
 そして地元の為に命を張って頑張っている人達がいることも忘れてはならない。
 その地元を守っている方の案内でこの「ディアナ号」や「プチャーチン」の事を詳しく知ることが出来た。このようにそれぞれ、頑なに地元の為に一生懸命頑張っている人達が本当に日本を支えている方々かも知れないと思った次第である。

参考資料
沼津市戸田造船郷土資料博物館資料
『日本史年表』 岩波書店
沼津市議会議員 水口 淳氏の話と資料

「ディアナ号」

平成25年6月2日記


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