東京木材問屋協同組合


文苑 随想
見たり,聞いたり,探ったり No.195

〜歴史探訪 一人旅〜
「伊藤若冲」に魅せられて
「若冲展」東京都美術館(2016年4月)
青木行雄

 新緑鮮やかな土曜日の午後、上野の森に足を運んだ。美術・芸術の森、上野の森には美術展・特別展・コレクション展などなどあちこちで満載であった。JR上野駅公園口から出て来る人々はどこの会場に行くのか。大勢の人達で溢れている。


※上野公園の入口に大きな看板がデーンと
 掲げられていた。
 今日は「若冲展」の開催する東京都美術館へ直行である。
 観覧料、当日一般1,600円・65歳以上1,000円。1,000円出すと証明するものを見せろと言われて、喜んでいいのか、規定ですからと言う。「若冲」生誕300年記念の「若冲展」だが、若冲85歳の生涯だったと言う。この年齢に達するにはまだまだ時間は残っている。

※東京都美術館の入口に玄関に立てかけられている看板。

※入口の外に行列の人である。当日は約1時間待ちで
 あった。

 東京都美術館は上野動物園に隣接する、一番奥の方にある。今日は動物園も一杯で長蛇の列であった。この若冲展も1時間待ち、1階のテント張りの行列に加わる。地下に下りてからも時間はかかった。
 入口で音声ガイドの機械を借りて入場する。ナビゲーターの案内人中谷美紀さんの案内で、重要文化財・NO. 1『鹿苑寺大書院障壁画』、NO. 2『隠元豆・玉蜀黍図』、NO. 3『旭日鳳凰図』、『孔雀鳳凰図』と音声ガイドに従って歩き始めた。


※外の行列から地下の入口前の行列である。
 ここで音声ガイド機を借りて入る。
 この「若冲展」生誕300年記念として、主催・東京都美術館、日本経済新聞社、NHK、NHKプロモーション。協力・宮内庁となっており、宮内庁三の丸尚蔵館に尚蔵の31点他が一堂に展示されていた。これ程の若冲の作品が一堂に見られる事は今までになかった。見事と言える。
 個人蔵も何点か出品されており、出品者を列記して見ると、宮内庁、京都・慈照寺、和歌山・草堂寺、細見美術館、岡田美術館、京都・鹿苑寺、国立歴史民俗博物館、京都・相国寺、京都石峰寺、京都国立博物館、平木浮世絵財団、京都両足院、他多数あったが、米国収集家が愛した若冲として展示された21点は、メトロポリタン美術館、デンバー美術館、エツコ&ジョー・プライスコレクションUSA等であった。
 出品者が多人数であることと、単数出品者は京都が多く寺の持主が多いことだ。出品作品リストを計算すると一部日によって展示替えがあるのではっきりした出品点数はわからないが約120点、これだけ多くの出品は聞いた事がない。一番多い出品は宮内庁、三の丸尚蔵館所有31点で、次に米国より出品されたと思われる9点、江戸時代の作品が多い、エツコ&ジョー・プライスコレクションUSAの出品であった。次に多いのが京都・鹿苑寺7点あまりの出品で重要文化財が多く見事な作品だった。

 若冲とは
 若冲は京都の青物問屋の長男として生まれ、生活は極めて裕福であったと言う。23歳の時に家業を継いだが、40歳の時に次弟に家督を譲り画業に専念する。仏の教えを尊び、その一方で描くことを愉しんで、晩年まで作品を描き続けた。身近に存在する画題をじっくり観察し、精緻でユーモラスな生命力あふれた表現はいつの時代も多くの人を惹きつけてやまない若冲である。(パンフレットより)

 若冲展のパンフレットによると、初期から晩年までの代表作品を集結。

 「伊藤若冲(1716〜1800)は18世紀の京都で活躍したことで知られる画家である。繊細な描写技法によって動植物を美しく鮮やかに描く一方、即興的な筆遣いとユーモラスな表現による水墨画を数多く手掛けるなど、85歳で没するまで精力的に制作を続けた。本展では、若冲の生誕300年を記念して、初期から晩年までの代表作約80点を紹介する。若冲が京都・相国寺に寄進した『釈迦三尊像』3幅と『動植綵絵』30幅が東京で一堂に会するのは初めてである。近年多くの人に愛され、日本の美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります」と書かれていた。

 伊藤若冲略年譜(年齢は数え年)

1716年(享保元年) 1歳 2月8日、京都高倉錦小路の青物問屋「枡屋」の長男として生まれる。
1738年(元文3年) 23歳 父が亡くなり、四代目源佐衛門となり家督を継ぐ。
1747年(延享4年)頃 30歳代 若冲と名乗り、作画する。この頃、相国寺の僧で生涯の友となる大典顕常と知り合う。
1755年(宝暦5年) 40歳 次弟に家督を譲り、画業に専念する。
1758年(宝暦8年) 43歳 『動植綵絵』の制作に着手か。
1759年(宝暦9年) 44歳 鹿苑寺(金閣寺)大書院の5部屋に墨絵の障壁画『葡萄小禽図』ほかを描く。
1764年(明和元年) 49歳 金刀比羅宮奥書院の障壁画を制作する。
1765年(明和2年) 50歳 末弟が亡くなる。『釈迦三尊像』3幅と『動植綵絵』24幅を相国寺に寄進する。
1766年(明和3年) 51歳 相国寺に自ら寿蔵(生前墓)を建立。『動植綵絵』の残り6幅を完成させ、寄進したか。
1769年(明和6年) 54歳 6月17日相国寺の閣懺法の法要に際し、『釈迦三尊像』『動植綵絵』を方丈にかけ、参詣者に公開。以後、明治時代まで毎年同じ日に公開することが恒例になる。
1771年(明和8年) 56歳 年末から翌々年まで、高倉錦小路の青物市場の営業をめぐる争議に際し、尽力し解決に導く。
1776年(安永5年 61歳 この頃から、石峰寺の『五百羅漢』に着手する。
1788年(天明8年) 73歳 天明の大火で居宅とアトリエを焼亡。大阪に避難する。
1790年(寛政2年) 75歳 大病を患う。西福寺『仙人掌群鶏図襖絵』などを制作。
1800年(寛政12年) 85歳 9月10日、若冲没。石峰寺に葬られる。

 若冲についてもう少し人物等を記してみたい。
 若冲と大変親しかった京都相国寺の禅僧の記された若冲の人物評によると、「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と言い、彼には絵を描くことが人生の喜びの全てで、芸事にも酒にも女遊びにも興味がなく、こうした世間の雑事や商売も関心がなく、頭には絵筆を握りたい思いでいっぱいだったようである。

 最初は他の画家と同じ様に当時画壇の主流だった狩野派に所属したようだが、自分の画法を築けないと考え、辞めて独学で画業を続けたらしい。

 若冲の画は主に鶏の絵が代表作と思われるが、生き物の内側に「神気」が潜んでいると考えた若冲は庭で数十羽の鶏を飼い始め、すぐには写生せず、1年も鶏の生態をひたすら観察し続けたと言う。

※この画3点は当日の展示の絵ではない。どこからのものか わからないが。『仙人掌群鶏図の3』

※『南天雄鶏図』


※『向日葵雄鶏図』
 その後、鶏の写生は2年以上続き、その結果、草木や岩にまで「神気」が見え、あらゆる生き物を自在に描けるようになったと言う。そして日本美術史における花鳥画の最高傑作となったのである。
 この頃から京都に「円山応挙」と言う有名な画家が誕生している。なんと門弟千人という円山派が都の画壇を席巻する。一方、若冲は一匹狼の画家で朝廷や政権にコネも何もなかったと言うが、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど有名な画家にあげられていると言うのである。

 1788年(天明8年)73歳の時、不運にも「天明の大火」が若冲に襲いかかる。京の街を火の海にしたこの大火で、彼の家も画室も灰になり、大阪へ逃れて行った。私財を失って生活に貧窮し、この大火に合ってから初めて家計の足しの為に画を描き売ることになったようである。

 画1枚を米1斗で売る暮らしが始まった。だから彼は別号、「斗米庵」と言われたらしい。
 今回の出品者の中にも1枚だけ出品の個人や寺もあったようである。
 若冲85歳の晩年は悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼は貧困も苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。

 最晩年の10年間で、京都・石峰寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を若冲が下絵を描き石工が彫り上げた像は、住職と妹の協力で完成した。そして1800年(寛政12年)、今から200年以上昔に、85歳もの長寿で大往生したのである。無欲の彼は生涯独身だったと言う。

 「私の絵は千年後に理解される人があらわれるであろう」と、言われた言葉が有名になったが、215年後の今、真髄がとき明かされそうである。

     
資料 若冲展 パンフレット
若冲展(東京都美術館)書
  『日本史年表』 岩波書店

平成28年5月8日 記


前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2015