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深川

仙台堀 海辺橋

海辺橋から東方を望む この付近は俗称水場と呼ばれていたが、江戸時代に飲料水を売る水船の船着き場があった為(昭和49年4月20日撮影) 昭和50年4月16日発行「深川 木場」

海辺橋より、同方面 水船船着き場の歴史看板があったが割愛

 

 

 

 

 

 

清澄通りぞいに 旧東京市営店舗向住宅 (通称清澄長屋) が見える
関東大震災後の復興事業の一環として、清澄公園の敷地に東京市が昭和3年(1928)に建設

 

 

 

 

海辺橋より平野一丁目方面

だんご屋の奥が現在平野ふれあいセンター・平野児童館になっているが、元深川警察署だった

さらに北に進めば資料館通り、元深川区役所,元江東区役所だった江東区深川江戸資料館、元区役所通りがあり

清洲橋通り、東京メトロ半蔵門線清澄白河駅となる

 

 

仙台堀北河岸は海辺橋から木場公園まで材木屋(問屋)の立て林場が続いており、道路使用許可を取って道路にまで木材を立てかけていた(仕事が終わったらロープ掛けてしていた)ので、店の名前が見えなく、ガラの悪いあんちゃんに「にいちゃん、どこに用?」など声を掛けられる始末だった

 

昭和50年深川木場 平野一丁目付近 昭和49年7月30日撮影

 


 

架け替えた際の元の橋脚?跡が残っている、水道橋の跡かも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橋のたもとに周辺案内図、清澄公園入口

 

 

仙台堀
海辺橋から亀久橋周辺

東京都区分図江東区詳細図(1947)

仙台堀南岸は、木更木橋まで深川二丁目、その先 冬木町

冬木弁天堂. 冬木弁天は、以前大きな池のある材木豪商冬木屋の邸内の弁天堂に安置されていました

冬木弁天の東に昭和40年ごろまで水路があった 仙台堀南河岸に”野口橋”、
葛西橋通りに”冬木橋” 埋め立てられているが、葛西橋通りに橋の痕跡の盛り上がりがあった

 

 

 

 

 

 

 

 

大東京区分図三十五区之内深川区詳細図(1935) 冬木橋

 

冬木弁天堂 街角みちしるべ 冬木弁天
 この道しるべアクリルパネルで覆われていて写真撮ったが説明文読めない
内容はよくある説明なので上のリンクからでも

 

台東区立図書館/デジタルアーカイブ
改正 深川之内 小名木川ヨリ南之方一円 嘉永3年(1850)には、冬木弁天は、まだない

油堀(この時代の富岡橋は亀堀の近くにあった、廃橋) 黒江川接続 正面に”江川堀”が仙台堀まで開削されている(仙台堀接続部が”木更木橋”)

 

明治34年(東京市電,東京市区改正による道路新設)黒江川廃川 後でも、江川(えがわ?読みは不明)はまだあった
明治四十年一月調査東京市深川區全圖 1907 では、江川堀の南支流の先に 冬木弁天が貯木池に囲まれてペニンシュラの様
冬木弁天北に仙台堀野口橋からの入堀があるが、精米所やら養魚場やらと記載がある

この地図にある仙台堀の北河岸の”川島橋”ここが埋められ”木更木橋”北詰か?南詰は”小川橋”と”野口橋”の間か・・・よくわからない

黒江川・江川 4 / 4

 

1 黒江川 2 黒亀橋 3 江川堀4 冬区弁天


 

海辺橋から東方を望むと、平野町1丁目ー深川2丁目

先に見えるのは、木更木(きさらぎ)橋
なんでも 冬木町の材木屋だか工務店のおやじが命名したと、その末裔の男から聞いてたが、エビはない

江東区土木課のリンクを貼っているが、諸元的なページで、意味を感じないので、この先やめる

西方を望むと、清澄橋、この清澄橋から西からが、木材をよく見たところ

 

 

 

 

平野町から深川二中方面

昭和22年(1947)の古地図をみると、第二明治小学校(女子部)のところが中村高女(仮校舎?)、深川二中が慧然寺(えねんじ、一時寒光寺を称する)にあった、その後深川二中が明治小の隣に引っ越し

引っ越し前の深川二中の場所は、カシマと呼ばれた空き地、どうも明治小建て替えを請け負った鹿島の資材置き場だった?

その地図だと、引き込み水路があり冬木弁天, 冬木橋(福砂通り)の先まで入っていた様子

 

航空写真で見てみると

地理院地図Vector (試験公開) 1945~1950

 

古地図とさほど年が変わっていないのに明治小脇に掘割があり、現二中のところには水路がない、江川北支流の残骸?
仙台堀南河岸にあった橋は”小川橋”

ぶらタモリで調べてほしい
※古老によると煉瓦焼いてる工場があって、原料,出荷用の堀だったのでは?とのこと

 

 

 

 

 

 

木更木橋より東方(昭和47年8月13日撮影) 昭和50年深川木場

先に見えるのは、亀久橋

 

 

 

 

 

 

曳舟に曳かれていく筏と川並(昭和33年3月撮影) 昭和50年深川木場

亀久橋から西南(これから亀久橋を通過する様子)、見える問屋街は深川二丁目

 

 

 

 

おまけ 例の水船 観光高札「深川と水」

・・・マジか

 

隅田川左岸には水道橋がないので、水系は別だったのはまあわかる、現在と同じように 利根川(中川)から引っ張ってきていたと思っていましたよ
火消も、渡る橋が両国橋,永代場(しかも木造)くらいしかないので別だった 江戸の町火消し と 纏 (なぜか 大橋と両国橋が一緒に書かれている、同じ橋なのに)

 

 

 

 

ひらの甚四郎長久

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