永代通り舟木橋東詰の路地を入っていくと江東区指定有形文化財(建築物)繁栄稲荷神社がある、株式会社大丸松坂屋百貨店 本社が隣にというか大丸の敷地内にある
昭和50年深川木場 権兵衛稲荷の項より権兵衛稲荷は永代通り舟木橋東詰左にあったといわれる、戦災で焼失写真は下木橋(現川並の銅像のあるところ)から見た当時の権兵衛稲荷付近、左側は繁栄稲荷。上方は建設中の首都高速九号線。古きものと新しきものとが対照的である。(昭和49年7月11日撮影)
永代通り 大島川東支川に架かっていた舟木橋、西支川は埋め立てられて
木場親水公園, 舟木橋第1~4児童遊園となった
どうやら大横川(大島川)から築島橋(首都高9号深川線木場インター線)までが舟木橋児童遊園,
そこから仙台堀川までが木場親水公園らしい
舟木橋第二児童遊園(ここが権兵衛稲荷跡?)に”下木塲”の看板がある、”トーテムポール”があった筈だが今どこに? [よもやま話 トーテムポール]
その脇を進むと繫栄稲荷、永代通りの歩道に”舟木橋跡”記憶銘板がある
永代通りは震災復興道路で開通した、下木塲は、当時旧木場一丁目が入船町、旧深川木場町三丁目が木場町だったので、
入船町の”舟”と、木場町の”木”で 舟木橋
明治四十年一月調査東京市深川區全圖 1907 舟木橋
国際日本文化研究センター 所蔵地図
== 木場堀 ==
木場とは材木置場(貯木場)のことです。江戸では徳川家康の入府以来、江戸城や大名屋敷、寺社仏閣や町家の造営のため材木の需要が高く、幕府は寛永18年(1641)に材木置場を永代島に集めました。ここが木場(後に元木場)と称され、地名の由来となっています。元禄14年(1701)、市街地の拡大と材木需要のさらなる増加に伴い、木場は少し東よりの深川に移転し、9万坪もの深川木場が誕生しました。
※「深川木場」とよく目にするが、深川区木場なのか、元木場が深川だったから、「深川木場」なのか よくわからん
台東区立図書館/デジタルアーカイブ
改正 深川之内 小名木川ヨリ南之方一円
この古地図から 木場堀を考察する
震災前
木場堀割は
さほど変わっていない
震災後(旧町名)
道路割が
大幅に変わっている
木場の範囲は、町名関係ない、元木場の木材業者15軒が、9万坪を幕府から開発許可を得て埋め立て造成したのが、木場(木場が出来たから、深川材木町一帯が元木場と呼ばれるようになった)
木場の範囲を赤枠で囲った、
上から 上木場, 中木場, 下木塲
木場は四方を幹川で囲まれている 横(南北)は緑ライン 西から 平久川, 亥之堀川
縦(東西)は水色ライン 北から 仙台堀, (油堀), 大島川(平野川)
※大島川(大横川)、平野橋から沢海橋まで平野川と書かれた資料がある
木場堀 とは、この幹川の囲まれた掘割の事を言う(ざっくり)
掘割の中でも、幹川から幹川を結ぶ掘割を 支川(しせん)という
平久川の東、仙台堀と大島川を結ぶ南北の堀は、大島川東支川
よくわからないのが、北にある福富川、仙台堀から仙台堀北枝川と大横川北支川を福富川というとか
幹川から分かれて、支川が刺さったりするのが、枝川?、まとめて福富川
油堀も三つ目通りが出来てしまって、よくわからない、本来 隅田川から(平久川?)大島川東支川までで、その先(点線)鶴島橋,繁栄橋から先は油堀枝川?だとか(大横川まで届いていない)
大島川東支川から亀居橋(三つ目通りの橋)の先大横川までの掘割、もちろん大横川支川(?)
大島川,亥之堀,大横川を纏めて大横川と呼ぶことになったが、南北に流れる 西,東支川は大島川、洲崎南水門の南支川は大横川(新しいから?)、東西を流れる亀居橋の大横川支川は、何もつかない
平久川から東支川までの中の川は平久川枝川(入舟町堀)
震災前まであった2本の南北の木場堀 (仙台堀から大島川)のうち西の木場堀は、埋立造成で三つ目通りとなり消滅、1本の木場堀が残った(南は永代通りの為、埋立造成)
これが木場公園以前にあった 木場堀 でよろしいでしょうか
※亀居橋の堀割の名前は、わからずじまい
深川茂森町に深川艦材囲場(海軍艦材貯木場)があったことから軍艦堀?海軍堀?
(深川艦材囲場から大横川に出る橋が海軍堀橋なので、そこが海軍堀、ただし豊住貯木所も海軍堀なので、西海軍堀と呼ばれたり、違うか・・)、
茂森町から深川扇町まで中木場河岸があったので、中木堀??(これをお勧めしたい)、
時代と共に愛称も変わるし、木場堀は橋と共に無くなったのだから、しかたない
木場堀は、大島川東支川(木場親水公園)、福富川の一部(親水公園)だけ、公園として残っている

深川木場[『新東京百景』より]
前川 千帆 1930
MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO.

舟木 要











