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東陽

洲崎 洲崎川

 

 

大門通り、洲崎川緑道公園 西入口に 洲崎橋跡地のモニュメントがあった

よ・読めない・・ (洲崎橋跡地は読めま~す、それ以外が・・)

 

 

 

 

 

 

洲崎川緑道公園 東入口、こっちが公園の入り口か
洲崎川緑道公園の由来がある

洲崎橋跡地アンダーパスで、東西がつながっている

 洲崎川緑道公園は、東陽二丁目の南陽小学校付近から大横川南支川の合流点まで、約630m,平均幅18mの一級河川洲崎川を埋立造成したものである。
 この洲崎川の位置する地域は、江戸時代、はるか房総半島から東京湾一帯が望見できた風光明媚な海岸線で、釣・潮干狩・月見・船遊びなどで賑った観光地であったが 寛政3年(1791)の大津波によりさびれた。
その後、明治19年(1886)の大規模な南部地区埋立により町並みが整備され、再び繁栄をきわめたのであった。
洲崎川は、この時造られた運河である。以後、沿岸の工場、倉庫地帯の舟運路として利用されてきたものの、道路網の発達による舟運交通の衰退、また、長年の地盤沈下、水質汚濁等で河川の機能が低下する一方であった。
 地域住民からの埋立、都市緑化の要望が高まる中、東京都は昭和49年12月、東京都市計画道路歩行者自転車道第2号線として計画決定し、昭和50年(1975)7月工事に着手した。・・・
昭和57年(1982)7月東京都江東区

※寛政3年(1791)の大津波とあるが、高潮の事である(国土地理院)

南陽小学校は、公園内にある量水塔から南に入った所にある

 

洲崎川北河岸道路は護岸痕跡が延々と続いている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洲崎川緑道公園は ここまで、南陽小学校はこの裏
洲崎川跡は、東陽町第2自転車駐車場(駐輪場では?) までで終わっている

四ツ目通りまで痕跡は続いていない 埋め立て払下げされている?
洲崎川は、明治通り日曹橋 を越えてSUNAMO(スナモ,奥に下水処理場がある)まで続いていた

 


 

洲崎川は、大横川南支川から始まっている

 

大横川南支川に架かる弁天橋の袂から洲崎川は分かれていたはずだが
水道橋の下、弁天橋橋脚まで南支川はきれいに護岸整備が終わっている

なんの痕跡もないので、弁天橋東詰にある洲崎川緑道公園に入ってみる

 

 

 

 

 

弁天橋からでは洲崎川分岐がさっぱりわからないので、洲崎川緑道に入ってどうなっているのか見てみるが、さっぱりわからない

緑道公園西部は洲崎橋まで続いている

 

 

 

 

 

 

弁天橋西詰の先から洲崎弁天を撮ってみる

洲崎弁天, 洲崎弁財天 だと思っていたが “洲崎神社”

 

 どこが神社の写真なのか という人は 洲崎神社のサイトへどうぞ

 

 

 

 


 

新砂 江東區詳細圖 東京都區分圖 1947

 

 

 

 

 

八郎左衛門

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