昭和20年(1945)8月15日 日本は無条件降伏し、終戦を迎えた
終戦前から内務省国土局計画課長大橋武夫のもと1945年春までには戦災復興大綱を策定基本方針の骨格が作られた、(それまでの都市計画が防空都市計画となっており建物疎開,緑地計画を基に戦災復興都市計画を策定)、
戦後内務大臣となった堀切善次郎の元、12月30日戦災地復興計画基本方針が閣議決定、戦災復興院が設置された

国際日本文化研究センター 所蔵地図
中央區詳細圖:東京都區分圖 1947 中央区
中央区では震災復興道路等都市計画は戦争前に終わっているので、
復興計画道路(浜離宮あたりの新大橋通り
人形町金杉通りなど)
復興計画緑地はあまり計画されていない
進駐軍土地使用及び建物として
築地市場周辺,聖路加病院,日本橋川周囲
などに赤い★マークがある
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道路・緑地配置版新生東京詳細地圖 1946
ほとんど実現しなかった戦災復興計画
ふっとい斜線の道路は100m道路
(蔵前橋通り本郷,浅草区部、四ツ目通りなど)
環状道路が規定されている 〇漢数字 環状4号線は丸八通り、その次が 環七
豊洲に抜けるマッカーサー通りは、環状2号、外堀通りではない・・・ややこしい
(三つ目通りが環状3号,四ツ目通りが環状4号、明治通りが環状5号と思っていたあなた、違います)
東京の100m道路(四ツ目通りなど)は一切完成しなかった
本来、都市計画税を戦災復興都市計画に充てるはずがGHQによる税制改革で廃止されていた、
昭和通りにうずたかく積み上げられた灰燼処理で困っていた東京都はガラで河川を埋立て、造成後の埋立地を売却して塵芥処理経費を捻出するというとんでもない「不用河川埋立事業計画」が決定される
中央区の戦後復興-焼跡の灰じん処理と掘割の埋め立て-が埋められた 戦災復興都市計画は何もできなかったといっても過言ではない(私見です)河川はただ埋められただけ・・最悪(私見です)
中央区の戦後復興-焼跡の灰じん処理と掘割の埋め立てvol.2 より(PDF 中央区Only)
埋め立てられた掘割に架かっていた橋
ミツカン水の文化センター 機関誌『水の文化』機関誌 47号つなぐ橋
- 東堀留川
(入船の新材木町) - 浜町川
(隅田川から神田佐久間町), - 龍閑川
(浜町川から神田鍛冶町今川橋の先、外堀=日本橋川 まで), - 外堀川
(日本橋川から呉服橋,外堀通り東京駅の間、数寄屋橋の先土橋 新橋まで), - 三十間堀川
(三原橋), - 新川
(新川1,2丁目間), - 真田堀
(千代田区麴町四谷駅南), - 六間堀川(江東区新大橋小名木川堅川間の横川)
が埋められた 戦災復興都市計画は何もできなかったといっても過言ではない(私見です)河川はただ埋められただけ・・最悪(私見です)
その後首都高速工事などで埋めたてられた河川は、
- 京橋川
(首都高速KK線), - 楓川
(首都高速1号線), - 築地川
(旧楓川より汐留方面), - 汐留川
(浜離宮西側が首都高速1号線), - 箱崎川
(首都高速6号箱崎JCT) - 桜川
(八丁堀),
河川を埋めて1964オリンピックに間に合わせようと首都高を作った、日本橋川上空に作った首都高は、日本橋周辺の一部だけ地下化工事を実施中・・最悪(私見です)
旧京橋区日本橋区で、今残っているのは 日本橋川, 新川の亀島川, 浜離宮周囲の汐留川?,月島の2本 か
= 道三堀 =
国際日本文化研究センター 所蔵地図
大名小路神田橋内内櫻田之圖 1860 (北上にしたもの)
斎藤道三とは関係がない「幕府典薬寮(てんやくりょう)の医官今大路(いまおおじ)道三(どうさん)の屋敷があったことから道三橋と呼ばれるようになりました」千代田区の文化財 道三堀跡
外堀川日本橋川明治42年(1909) 道三堀は埋め立てられ橋もなくなった
道三堀は、日本橋川が北に折れ曲がって、そこから外堀川が南に分かれる所で、道三堀が東西の日本橋川を直進して四つ辻となっていた、そこから南にオフセットして内堀で和田倉堀と繋がっていた (おわかり?)

道三




