永代橋から江東区側の震災前

明治四十年一月調査東京市深川區全圖(1907) 国際日本文化研究センター 所蔵地図
取敢えず 名前が判らないが 永代橋から黒亀橋で左に折れ清澄通りまでの通りがあったらしい
携帯番地入東京區分地圖 東京市電車図 (1910) では永代通りが点線
東京電車案内図 昭和2年(1927)まで、市電は 福砂通りを走り両国に向かっている
昭和8年(1933)最新大東京交通名所地圖 では、門前仲町で直交している
油堀に架かる 黒亀橋 「大正12.9.1 東京大震災実況
最も惨鼻を極めたる深川黒亀橋の惨害」東京都立図書館 TOKYOアーカイブ
清澄通り と 福砂通り(葛西橋通り) の深川一丁目交差点に 通称 三角公園 がある
黒亀橋 から 三角公園に曲がって清澄通りを両国に向かっていったのだろう
そこそこ広い
ここに市電が走っていた
関東大震災があって、帝都復興事業計画に基づき 震災復興道路整備が行われた
深川二丁目北町会 町会の歴史より (SSL化されていませんので画像共に抜粋コピペ、全文は検索してみてください)

葛西橋通りは福砂通りであるが、この道路は、寛永3年の古地図から判断すると、佐賀町代地と蛤町、御賄方を貫通したことがわかります。そして、正覚寺裏の蛤町と心行寺裏の蛤町、玄信寺裏の蛤町そして川を挟んで、寺裏続きがありますが、これも現在の北町会の一部で有ることがわかります。
高橋までの道として西に寺裏を突っ切って東京市電の道路(後に相生橋まで南進して震災復興道路江東通り,清澄通り)、福砂通りとして南の寺裏を突っ切って震災復興道路が出来た模様

国際日本文化研究センター 所蔵地図
復興完成記念東京市街地図
東京日日新聞附録 内題)東京日日新聞附録復興完成記念東京市街地図 昭和5年(1930)
路線名が、”幹線道路第3号 永代通り:幅員33m”を 永代橋通, 福砂通, 清澄通りを 江東通, “幹線道路第5号 清洲橋通り:幅員33m” は清砂通 と記載されている
帝都復興事業計画に上程された道路計画名をそのまま記載したのか、帝都復興事業計画自体見ていないので、わからない
赤線強調されているのは復興道路の様だが、福砂通りが第何号なのか分からい
この後、市電は黒亀橋を通らず、永代通り門前仲町で清澄通りと交差する。もちろん戦後は都電です

国際日本文化研究センター 所蔵地図
最新大東京交通名所地圖 昭和8年(1933)
そうして、福砂通り・永代通り・清洲橋通り は深川区の東西をつなぐ幹線となった
(山名宗全堂より一の宮神輿がくぐれなかった歩道橋方面)
昭和2年(1927)郊外路線として、砂町より先 葛西橋通りが計画決定(京葉道路,蔵前橋通り,環6~8 も)
木場深川の古老たちが
葛西橋通り のことを 福砂通り、門前仲町のことを 門仲(もんなか) ではなく 仲町(なかちょう) と呼ぶので、脳内変換しなくてはならない
初老の自分は 最近の若い奴が(ソクラテスの時代からよく言う) 門前仲町のことを 門前(もんぜん) と呼ぶので面くらっている、たしかに、どこの門前町なのか、永代寺?
麻布十番 は、善福寺門前町
江戸東京博物館所蔵 東京都市計画地図
年代:大正10年(1921)11月13日
大正10年 震災前?
1927年8月決定 都市計画道路網 の図面は見つからなかった
国際日本文化研究センター 所蔵地図
道路・緑地配置版新生東京詳細地圖 1946
ほとんど実現しなかった戦災復興計画
ふっとい斜線の道路は100m道路
(蔵前橋通り本郷,浅草区部、四ツ目通りなど)
環状道路が規定されている 〇漢数字 環状4号線は丸八通り、その次が 環七
豊洲に抜けるマッカーサー通りは、環状2号、外堀通りではない・・・ややこしい
(三つ目通りが環状3号,四ツ目通りが環状4号、明治通りが環状5号と思っていたあなた、違います)
福砂通り延長線に永代通りが合流する計画だった(新葛西橋は昭和38年(1963)なので計画中)

大風呂敷







