明治四十年一月調査東京市京橋區全圖 1907 佃島
この古地図のおかげで、石川島が存在していて、佃島に合併したことがわかった
Wikipedia 東京湾 埋立地 より抜粋(2026)
明治16年(1883)~明治29年(1896)
- 1号地: 中央区月島
- 2号地: 中央区勝どき1〜4丁目
- 3号地: 中央区勝どき5〜6丁目
- 4号地: 中央区晴海
隅田川口改良工事 第三期
大正11年(1922)~昭和10年(1935)
- 5号地:豊洲
晴海、豊洲は一体開発が進められることに
豊洲市場は豊洲石炭埠頭で5号地ではない
晴海通りは、震災復興道路 幹線第四号
勝鬨橋は昭和15年(1940)6月14日開通
月島(1号地) と 勝どき(2号地)の間に 月島川、勝どき 2号地, 3号地の間は 新月島川
埋め立て順に運河が出来ていった(勝どきの町名由来は勝鬨橋、埋め立て完了は月島地先?)
新佃島と月島に間にあった運河(佃川)は埋め立てられ佃大橋になった 昭和39年(1964)8月27日完成
交差点が橋の名前なのはその名残り、佃川(清澄通り以東)も埋め立てられ、平成元年(1989)朝潮大橋の完成とともに佃川は完全消滅した
本来の佃島を囲う運河(佃川支川)は残っている

明石小学校に佃島から佃の渡しを使って通っていた子が、台風で船が出ないので、泊まりに来ていたと、昭和28年生まれの湊町のややおばさんが言っていた
佃の渡し(中央区) 1963年11月 [東京デジタルアーカイブ]
= 晴海 =
明治より埋め立てが開始され(4号地)、震災後 東京市庁舎計画、その後万博会場として整備を始めたが、戦争で万博中止、いつかはよくなると言われ続けられる
昭和40年(1965)ごろ国際見本市会場など公共整備がひと段落して、都有地の払下げが始まった。 名門京橋商業(OB曰く)の移転(現晴海総合高校)、晴海団地などの街区なども
有明ビックサイトに国際見本市会場の移転がおわり、盛土され晴海ふ頭の防潮シャッターもなくなり(天端5m)、オリンピック選手村を晴海に作り、跡地を晴海フラッグができて、ついによくなると言われ始まる

晴海ふ頭,豊洲石炭埠頭など岸壁の低い港は (船から高い所に貨物を持ち上げるのが大変なので海抜が低い) 団地,マンションをインフラから盛土しないと建てられない・・・新木場もしかり
東京デジタルアーカイブ > 高潮水防訓練で水を防ぐためのゲートをしめる職員(江東区辰巳)1986年7月
豊洲市場で盛土がどうの議論されていたが噴飯ものである

昭和60年頃(1980~)までロシアの貨客船が接岸しているのが晴海通りから見えた
観光客が円をもっていないのか(ルーブルは換金できなかった)銀座まで徒党を組んで歩いていた
晴海の客船ターミナルは、青海にその機能のほとんどを移している(東京国際クルーズターミナル)
東京・晴海での米材製品の荷下ろし(昭和49年4月16日)
1985年頃からはラワン丸太の輸入が止まり、晴海にはラワン現地挽き製材品が荷揚げされる程度になった
地理院地図 Vector 1979~83|国土地理院 月島~豊洲
晴海埠頭の南、丸い建物が国際見本市会場
スケートリンクになっていた時すべりに行った記憶が・・・常設ではなかったのだろうが
突端は客船ターミナル,晴海信号所
- F:「自由信号」入出航の両方が可能
- I:「入航信号」入港する船のみ可能
- O:「出航信号」出港する船のみ可能
- X:「禁止信号」すべての船の入出航が禁止

昭和42年 晴海ふ頭の様子
東京港埠頭株式会社東京都専用線の歴史|春海橋公園
画像提供:一般社団法人 東京都港湾振興協会
旧晴海鉄道橋(晴海・豊洲間,春海運河)は春海橋公園遊歩道となっている
春海橋公園遊歩道
~晴海鉄道~
東京港埠頭株式会社設置の案内看板がある、QR
“旧晴海鉄道をARでお楽しみいただけます!“とある
※https://pro-vision-xr.com/からカメラ許可が求められますがAR(拡張現実)じゃないっぽいので、無視で
Port of Tokyo 2022 (東京港港湾計画、東京湾澪浚,枝川改修工事 を追記したもの)
豊洲石炭埠頭など民間埋立地は記載なし

石川重次






