油堀川 旧木材会館(深川)
帝都復興計画により清澄通り(相生橋~高橋 間)が開通、新設清澄通りに架かったこの橋の名を 富岡橋とした
油堀は埋め立てられ 首都高速9号深川線 となっている、富岡橋から 高架下は歩行者専用道路となっている
写真の 左が木材会館のあったところ、右は赤札堂
富岡橋北詰西イカ耳に親柱
富岡橋からみた油堀川
2~3年前迄所狭しとラワン丸太が繋留されていたが、現在は埋め立てられ、当時の面影はない。(昭和47年撮影) 昭和50年深川木場
富岡橋から東方(和倉橋方面)を望む
前方の橋は和倉橋。仙台堀川と共に木場の発展に大きく貢献した油堀川も埋め立てられ、当時の面影はない。(昭和48年6月撮影)
すでに筏は新木場などに移動され、埋立準備が始まっている
富岡橋は関東大震災後に帝都復興で清澄通りが開通した際に架けられた橋
嘉永3年(1850)の古地図にある富岡橋(閻魔堂橋)は
明治34年(1901)東京市区改正により廃橋、同時に山本町入堀を埋め立て
明治40年の地図では、富岡橋はない
帝都復興で小名木川高橋から二ノ橋通りを門前仲町まで延伸、清澄通りとなった際に当所に架けられたもの
震災前に油堀に架かっていた橋は、
下ノ橋(河口), 千島橋(西支川), 元黒亀橋(黒江川跡), 永居橋(平久川)
油堀廃川で、現在すべて廃橋

山本町堀 があった所(推定)
明治34年(1901)東京市区改正では、黒江川 廃川, 山本町堀 廃川
黒江川の一部,及び区画整理で、後に福砂通り, 清澄通りと呼ばれる通りを開通、
油堀に 元黒亀橋 を架け 東京市電を通した
山本町堀 は、現富岡橋跡から現門前仲町交差点留 の入堀
現油堀富岡橋跡 油堀接続部に 猪口橋
震災復興で大島川の先相生橋まで 清澄通りとなる
富岡橋自転車駐車場から和倉橋方面
南岸は深川公園
和倉橋は深川不動と富岡八幡宮の間にある
首都高高架下のこの道路は
首都高管理用道路・・・
深川公園は明治6年(1873年)に飛鳥山公園・上野公園・芝公園・浅草公園と共に日本で最初に造られた公園の一つ
油堀から八幡堀に橋が見えるが名称不詳
和倉橋はまだない
震災後、油堀北河岸にある永喜橋の入り堀を埋めてお不動さんと八幡様の間の通りを作った際、架けられた
(大島川 巴橋,油堀 和倉橋,仙台堀 木更木橋の通り)
八幡堀との接続部
帝都サウナがあった通りに護岸の切れ目らしき切れ目があった、
ココが八幡堀との接続部で橋があったところかと思ったが、どうも違う
道路左側に町会倉庫のビルがあり、横に公園入口、この道路左側に並ぶ建物が八幡堀だった?
公園境界は角にあったゲーセンダンボの敷地と深川公園のところにある
公園入り口通路以外は払下げになった模様(?個人の感想です、海老名市)
八幡堀に架かっていた名無しの橋の痕跡はなかった
深川公園 園内にパネルがあったのを思い出したので、見に行く
ケースに入った絵だと思ったら、漆喰絵
横の銘板から、レプリカと思ったら、
「明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。」
平成2年(1990)3月 江東区
永代通りがまだない頃の富岡堀の様子がわかるかと思ったが、
写真ではないのでワカラナイ
油堀北河岸にあった二つの橋
北岸に二つ橋があった(湊橋,睦橋)この入堀の間の河岸が緑地公園になっていたが、現在特老になっている
油堀北河岸道路に架かっていた 湊橋 の痕跡を探す
この特老、遊歩道跡地にできたので、西端のこの切れ目が、湊橋のあった所とあたりをつけたが、
古地図の位置関係からどうも違う
公園だった当時の痕跡はない
富岡橋(西)によると、左に集会所のある素敵な切り込みがあった
位置的にもココに湊橋があった模様でFA?
湊橋は早いうちに入堀と共に廃橋となっている
睦橋 の痕跡を探す
油堀北河岸通りにできた特別養護老人ホーム、幅が いい加減長い
睦橋の入堀は、日本荷造工業(今はNX商事)の掘割、
コンビニも同事業所が使っていた、地権者はしらん
コンビニの裏は材木屋
東端に通路と護岸痕跡があった、調べたところ左手の駐車場は入堀の跡(護岸切込み)ではない
昭和33年住宅地図 和倉橋
高架下から入堀を見ると、埋められた入堀の後に建物が建っていた

八郎左衛門




























